密森の奥深くに眠る工学技術の遺跡
1848年のある朝、英国の歴史家にして、作家兼旅行家でもあるジェームズ・エマーソン・テネント(James Emerson Tennent)卿は、松明の光を掲げながら、スリランカ北部の森林地帯を旅していた。 深い森の中には、古代の驚異的な工学の構築物が眠っている。 そう卿は耳にしていた。 原始林は人間が入ることを拒み、刺がある木がおい茂り、道は狭く登りも急で、一行は16キロものルートのほとんどを馬を降り歩かなければならなかった。そして、目的地にたどり着いた卿の目の前に広がっていたのは、巨大なダムの遺跡だった。
パダヴィヤ・タンク(Padawiya Tank)として知られるこの驚異的な工学技術の構築物は1,500年以上前のものであった。一行は巨大な貯水池や堤防を馬に乗って進んだが実に2時間も要した。
「湖は20~22キロもの広さがあろう。谷の狭い場所でも18キロはある。巨大な堤防が修復されて、少なくとも上流24キロまでは水が溜まったであろう。ダム自体が巨大な仕事で、長さは約18キロ。堤の高さは20m以上で、先端でも9m、底では60mもの幅がある」
パダヴィヤ・タンクは、1~12世紀にかけ構築された何千もの貯水池のひとつにすぎない。最大の人造湖パラム・ラマ湖(Parak-rama Sea)は、24平方kmもあるが(3)、それ以外もポルトガル語の「tanque」にちなみ、「タンク」と呼ばれる何千もの人工の湖やダムのネットワークが個々の村に水をゆきわたらせるために設計されたネットワークで結ばれている。構造や設計は驚くほど高度なもので、卿は、初歩的な道具だけを用いて固い花崗岩を切り通したその仕事ぶりを絶賛している(2)。
国土を埋め尽くす灌漑網
米を栽培するには水が不可欠だが、スリランカの国土の2/3は、ほとんど雨が降らない乾燥地帯だ。この気候条件から、古代シンハラ(Sinhalese)王朝の王たちは潅漑が必要であることを認識し、モンスーンに降る雨を捉えるためのダム、運河の建設を行った。ある一人の王はこう語っている。
「この国では、わずかの雨水たりとても、人の役に立つことなくして、海に流されてはならない」(3)
各王たちの業績は記録として残る。ヴァーサヴァ(Vasabha:65~109)は、12のタンクと12運河を築いたし、マハーセン(Mahasena:274~302)は、1,890haに及ぶミンネリア湖(Minneri)を含め16のタンクを築いた。ダートセナ(Dhatusena)の治世(460~478)には、幅12m、長さ1900キロもの運河が、王都アヌラーダプラ(Anuradhapura)に給水していた。水利事業に最も熱を入れたのは、パラークラマ・バーフ(Parakrama Bahu) I世(1153~1186)で、770ものタンクと534本の運河を築き、2,300ものタンクと3,621本もの運河を修復している。豊かな作物の実りとそれが持たらす富は寺院に注がれ、花園には噴水が、都市には宮殿が築かれた(3)。
テネント卿に感銘を与えたタンクのほとんどは、今は完全に泥でふさがっている。だが、数多くの小規模なタンクは、いまも健在で、多くも一部は沈泥にふさがれているが、乾燥地帯の潅漑農業の基盤となっている(2)。スリランカの米の約40%は、今も雨が3カ月に集中する乾燥地帯で生産されているが、そのほとんどが紀元前300年から西暦1200年にかけて築かれた古代の灌漑システムに依存しているのだ。タンクの32%はクルネガラ(Kurunegala)、23%はアヌラーダプラ地区にあるが(1)、その密度は驚くべきほどで(2)、乾燥地帯約4万km2内には約3万ものタンクが構築されている。ほぼ1正方キロ毎にタンクがある計算で、約33万戸の農家がこうしたタンクの村で暮らし、約14万8000haの農地を灌漑しているのだ(1)。
地元住民が自発的に維持管理
では、タンクの多くはなぜ土に埋もれ、放棄されてしまったのか。ウィットフォーゲル(Wittfogel)は、大規模であれ小規模であれ、タンクは中央集権的な国家官僚制度により構築されたと考えた。タンクが放棄された理由も王朝の崩壊で説明が付くと主張した。
だが、ケンブリッジ大学で人類学の教授で、スリランカの潅漑農業の第一人者でもあるエドモンド・リーチ(Edmund Leach)卿は、巨大なタンクは官僚制度の仕事であったかもしれないが、小規模な村にあるタンクはそうではなかったと反論している(2,4)。卿がそう考えるのには、三つ理由がある。
第一は、巨大タンクが、伝統的な小規模農業の灌漑目的のために構築されたのではなかったことだ。なるほど巨大タンクは、二大古都、アヌラダプラとその後に遷都したポロンナルワ(Pollonaruwa)で消費される作物を生産する近郊農地の潅漑には使われた。だが、直接的な受益者は農民ではなく、主に噴水等の装飾用の給水に使われていたのだ。ポロンナルワを1164~1197年にかけ統治したパラカルマ・バーフⅠ世は、101もの寺院や像を建設し、数多くのタンクも建設した。だが、リーチ卿は言う。
「それらは実用的な構造物ではなく、記念碑だった」
卿によれば、これらタンクは王の権力誇示のために構築されたのであって、食料ニーズを満たすためのものではなかったのだ。
第二は、これとも重なることだが、巨大タンクの目的が本質的に装飾用で、スリランカの農村部はそれに依存していなかったことだ。
「中央政権が混乱し、巨大タンクが荒廃した時期も、農村での暮らしは、何ら問題なく適切に続けられた。各村には、村人たち自身が維持管理する小規模な潅漑システムがあった」(2)
そして、卿は、さらに灌漑事業を行うための中央集権的な官僚制度が存在した証拠が見出せないと指摘する(2)。古代スリランカの社会システムは、中世ヨーロッパやそれ以外の世界の封建時代とはかなり異なっていた。歴史上の研究からも、中央集権的な官僚制度によって工事がなされた証拠がないのだ(1)。タンクの維持管理作業の多くは、ラジャカリジャ(Rajakariya)によってなされていた。ラジャカリジャとは、あらゆる村人たちが、農閑期の40日を王のために無料で働く風習である。後にイギリスは、不愉快な封建体制の遺物として制度を廃止するが、これも国が強制する制度ではなく、村人たちも国には雇われず(2)、その労働はあくまでも王に対する敬意を表すものだった(3)。
なればこそ、カンディ王朝の宮殿外に人造湖を構築する計画が村人たちから拒否されたこともある。それは、装飾用の展示品で、ラジャカリジャの労務によって構築されるべきものではなかったからだった。 卿は書く。
「それどころか、王の年代記において、気前よく村のタンクを修理する君主たちが、称賛されている事実は、そうした作業が国家規模でなかったことを示唆する。古代から、村のタンクの修理作業は一般庶民の仕事であった」
必要とされる村のタンクの維持管理は、村人自身によってなされていたのである。大規模な修復や新たなタンクの建設では、タミール族のカースト制度の肉体労働者(Kulankatti)によりなされたが、彼らも国家の従業員ではなく、村人たちとの直接契約で働き、潅漑システムはローカルなコミュニティの手により運営されてきたのだった(2)。
村の生活と一体化していた潅漑
伝統的なスリランカの農村を特徴づけてきたのは、寺(仏舎利塔= dagoba)、タンク(wewa)、そして、水田(ketha)だった。古代のスリランカでは、稲作は職業ではなく、それ以外の社会活動と密接にかかわる生き方そのものだった。除草、犂での耕起、田植え、収穫の各段階には、歌、音楽、ダンスの特別な式典が伴い、今も残る伝統的なダンスは、そうした式典を起源とする。それらは、収穫、耕起等を象徴するリズミカルな運動に基づく(2,4)。カンディヤン・ダンス(Kandyan dancing)は、収穫後に村で実行される、コホマー・カンカリヤ(Kohomha Kankariya)という儀式が起源となっている。重要なのは、ゴヴィヤ(goviya)、村の僧侶だった(4)。大切な農作業は僧侶によって始められた。耕すのに縁起が良いと考えられた時に、寺の鐘が鳴り、村人全体が野に出た(2)。侶は水田に入り、耕す水牛にあわせて歌った。 オー、アマ(Ohoooo, amma)、オー、アポ、オー(ohooo appo ohooo) 「オー」は、海の音であり、アマは母、アポは父である。聖歌は、あらゆるゴヴィヤによってなされた(4)。そして、首都近郊でなされた耕起式には王自身が参加したであろう。
どの小規模な農的社会とも同じように、農業は家族の仕事で、子どもを含め、家族の各構成員には特定の仕事があった。水田から猿を追い払うのは子どもの仕事だったし、牛や水牛の世話をし、水田で父親を手伝いもした。母親の薪の収穫や食事準備をサポートし、牛や水牛の乳を搾るのも助けるのは少女たちだった(2,4)。少女は、母親やおばと一緒に、マットを作成した。母親は囲炉裏を暖かく保ち、暖炉が家の中心だった。このため、スリランカの家庭では母親の地位が一番高かった(4) 。村には相互扶助「アタマ(attama)」や「カイヤ(kaiya)」の伝統があり、いつでも隣人たちに助けを求められた(2)。例えば、農村コミュニティは親類から構成されているため、大人たちが野良で働いたり灌漑施設の維持で忙しいときには、ひとりの女性が、すべての子どもたちの世話をしていた(4)。
加えて、スリランカの伝統社会は、それ以外のどの小規模な農的社会もそうであるように、収量を最大にするよりも、リスクを最小とすることに関心が向けられていた。旱魃、洪水、病害虫等のリスクを避けるため、農民たちは、様々な品種を植えた(2)。
自然と調和した平等な農的社会
上流のタンクから流れ出る水は、下流のタンクに溜まり、水田へと流れ出て、相互に結びついた水流が、巨大な貯水池や運河へとつながっていく。タンクと用水と水田は総合され、かつ、多くが千年以上も存在してきたことから、人間の構築物として特定するのは難しいほど地域の環境や自然生態系と一体となっていた。水田、居住地等のマクロな土地利用に注意が払われてたのみならず、上流の沈殿池(goda wala)、保護堤防(iswetiya)、上流の風除け(gasgommana)、下流の風除け(kattakaduwa)等のミクロな土地利用も生態系の重要な要素とみなされていた。
タンクの水は作付け期間を延ばし、乾期の米栽培を可能にする。だが、タンクがもたらすメリットはそれだけではない。快適で涼しい微気候を維持し、農業生物多様性も保全してきた。事実、タンクは、湿地生物多様性の最も豊かな源のひとつとなっている。タンク周囲の動植物は多様で乾期にはタンクの水が牛や野生動物の唯一の水源となっていた(1)。 メインの貯水タンクに入る前に泥を堆積するために設計された砂防タンク(pota wetiye)。片方を修理する期間に使用する「双子タンク」。様々なタイプのタンクが造られたが、そのすべてが潅漑用途のものではなかった。例えば、村の上方の山中にタンクを造る伝統もあったが、そのタンクは、野生動物が水を求めて水田に降りてきて、稲を痛めるのを防ぐため、彼らに水を提供するものだったのだ。 さらに、今は批判されている焼畑式農業、チェーナ(chena)のために給水する山のタンクすらあった。
だが、焼き畑農業を行っていたからといって、彼らは森を破壊してわけではなかった。それどころか、古代スリランカ文明は森林保護に熱心だった。 16世紀の海賊ロバート・ノックス(Robert Knox)は船が難破し、カンディの王の捕虜として15年を過ごしているが、ノックスによれば、森の破壊を防いでいたのは、法ではなく、むしろ信仰だった。シンハラ族たちは、先祖がスリランカに侵入したとき、先住民である敵の精霊が、高地のジャングル内に逃げ込んだと信じ、森林には入るべきではないと考えていたのだ。 とはいえ、真実の理由が何であれ、高地の森林が保護されたことが、乾燥地帯の農業の持続性を確実にするうえで決定的な役割を果たした。今と同じく、千年前も島の中心に聳え立つ山々が、モンスーンを遮り、森林はその降雨を溜め、河川の流れを維持してきたのである(2)。
このように、伝統的なコミュニティは、土壌、水、自然生態系を保全するために最善の努力をしてきた。食糧安全保障は、その文化の中に組み込まれていた。稲作は10~3月までのマハ(maha)と4~9月までのヤラ(yala)と2回なされるが、水資源を保全するために地下水を農業用水として使うことは決してなされなかった(1)。
村の家は近接して建てられ、最小限の土地しか無駄にしないようにされていた(4)。また、主要な農地に恒久的な建築物を建てることを禁ずる風習もあった。レンガを造る権利を手にしていたのは、王や聖職者だけで、それ以外の人々は泥を固めて作った小屋に住んでいた。だが、レンガと違い泥の家は、すばやく土に戻り、結果として、有機物を農地にもたらす。その習慣は健全なエコロジーの原則の上に成り立っていた(2)。
乾燥地帯の多くの村には、村のタンクと同じ名前がついているが、タンクによる潅漑システムが、乾燥地帯の社会組織や伝統文化の決定的な要素となっていた。タンクによって各村にもたらされた自立が、ユニークな分散社会システムへ道を開いていた。 資源を平等にわかちあい、所有権が公平であること。これが、古代スリランカ文化の最も決定的な特徴であり、それが、平和で持続可能な農村社会の確立につながった。そこでは、農民たちの社会的な地域が最も高かったのである(1)。
王朝は繁栄したり衰退したりしたが、村やそのタンクは何千年も同じままとどまっていた。リーチ卿は、村やその潅漑システムの優れた持続性を指摘している。
「村や潅漑タンクがひとたび建設されれば、乾燥地帯でも潅漑地域を同じ規模で維持されなければならないことから、村の人口は変動は非常に少ない」
そして、それ以外の伝統社会と同じく、シンハラ族も「太陽と月がそこにある限り」と碑文に書きの残し、彼らの機関を永久的だとみなしてきたのだった(2)。
近代化によるコミュニティ破壊
だが、イギリス人がやってきて、産地でコーヒー、後には紅茶プランテーションを切り開くと森林破壊が始まる。独立時には、スリランカの国土の40%がまだ森林だった。だが、それ以降は、木材を販売し外貨を稼ぐために森林全体が破壊され、今は、国土のわずか4~5%を占めるにすぎない。森林破壊の結果は、悲惨だった。事実、土壌侵食の影響が全流域にもたらされた(2)。
植民地政府による大規模な潅漑プロジェクトも乾燥地域での大幅な森林破壊につながった。植物も沃野も失われ、村の生態系は破壊され、旱魃の深刻度は増えた。最も深刻な影響を受けたのは、村のコミュニティだった(1)。 また、コミュニティの破壊も決定的だった。リーチ卿はこう指摘する。
「中央集権化された灌漑部局が村のタンクの維持や使用に干渉する権限を持ったのは、1860年以降にすぎない」(2)
イギリス植民地当局がまず行ったことは、1860年代に潅漑部局を設け、村人たちからタンクの維持する責務を奪い去り、中央の潅漑部局の手にゆだねることだった(1,2)。その結果は壊滅的だった。 相互扶助の伝統はほぼ消え去る。多くの欠かせない農作業、とりわけ、除草はもう適切になされない。
スリランカにおいて伝統的な潅漑を研究したほとんどすべての研究者が、コミュニティの結びつきの重要性を強調しているが、専門的な仕事が、通貨によらずに実施されていたのは、相互的な権利と義務により縛られたコミュニティの絆(cohesive community)があったからだった。テネント卿は言う。
「タンクの破壊と最終的な放棄は、社会的な腐敗の必然の結果と考えられるべきだ。とりわけ、それを長く維持してきたローカル・コミュニティの解体による。その結果、崩壊の過程、他国ではゆるやかに進むのとは異なり、それがセイロンでは突然起こった」
このため、現在、ほとんどの乾燥地帯の潅漑システムは、かつて古代に存在したよりもずっと粗雑となっている。 1874年のC.ライト(C. Wright)のセイロン見聞(Glimpses of Ceylon)によれば、300~400品種の米が栽培されていたし、エドワード・ゴールドスミスが1982年に地元の農民にインタビューした際も、その農民が若い頃には280種以上の米が普通に使われていたという。だが、今は、15品種しか残されていない。
コミュニティに変わる行政当局もきめ細かい維持管理は行わなかった。灌漑部局にとっては、小規模なタンクは過去の不要な遺物にすぎない。近代経済の費用・便益分析に基づけば、野生動物たちの利益のために、余分のタンクを維持、まして、修理することは正当化できない。伝統的な潅漑は、経済便宜のために犠牲にされた(2)。
古代のシステムは、近代ダムとは違い、地域的な水理学的特性をよく捉えていた。用水路は等高線に沿い、流速を遅くし、水のロスも少なかった。だが、20世紀の大規模潅漑開発プロジェクトは、古代のタンクシステムが果たす機能への知識に乏しく、これも古代のタンクシステムを無視したり破壊した(1)。
伝統文化の再評価
スリランカの一人当たりの米の消費量は、現在、約150kg/年で、輸入米は10%未満にすぎない。米を安定的に生産することは、国の発展や貧困・飢餓を減らすために欠かせない。乾燥域の農村で広まる貧困を減らすうえでも、安定した用水確保が非常に重要だし、乾燥地帯で打ち捨てられた古代のタンクが、マラリアの寄生虫の発生源となっている。村のタンクを回復し、適切することは、マラリアの流行削減にも欠かせない。 このため、スリランカ政府は、2004年に、村の1000のタンクの修復プロジェクトを立ち上げた(1)。
潅漑計画の伝統はいまもスリランカで存続している。19世紀の探検家、テネント卿が再発見したタンクの多くが回復し、マハウェリ計画(Mahaweli Diversion Scheme)等新たな仕事も進行中だ。それは乾燥地帯の何十万haもの土地を灌漑し、国の発電力を倍増している。ブルドーザーやコンピュータの助けを受け、古代の王たちが着手したスリランカの包括的な潅漑システムは今も続いている(3)。古代の潅漑システムを蘇らせることは、世界農業遺産プロジェクトの目的とも重なり、それに評価するにふさわしい努力なのである(1)。
【引用文献】
(1) Wewe Irrigation System (Sri Lanka) GIAHS, FAO.
(2) Edward Goldsmith and Nicholas Hildyard,Traditional irrigation in the dry zone of Sri Lanka, The Social and Environmental Effects of Large Dams, 1984.
(3) Mr Ghaz, A Scheme That Holds Water: An Irrigation System That Goes Back to Ancient Times, March 4, 2010.
テネント卿の写真はサイト(3)、水路の写真は(1)による
【追加文献】2010年8月1日改正
(4) Manik Sandrasagra, Life in the Village: On the Origins of Lanka, Serendib magazine Vol. 10 No. 1 Jan-Feb 1991.
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