幻の黄金郷
1492年にコロンブスが新大陸を発見して以来、一獲千金を夢見て数多くの探検家、コンキスタドール(Conquistador)たちが、スペインからラテンへと渡った。その一人に、アマゾンを探索したフランシスコ・デ・オレリャーナ(Francisco de Orellana)がいる。一帯が航海した大河にアマゾンという名が付けられたのもこの時であったし、勇敢な女性戦士から攻撃を受けたとの記録が後にアマゾネスの伝説となった。そして、1542年にアマゾンの支流のひとつ、リオ・ネグロ(Rio Negro)流域を探検した際、農場、村、さらには巨大な城壁を巡らした都市さえ目にしたと報告している。 以来、100年。黄金に魅せられた人々は、隠された黄金都市エル・ドラードを探し求めた。だが、宣教師を含め、誰ひとりとしてオレリャーナが目にした都市を発見できなかった。彼らが、見出したのは、ただバラバラに孤立した狩猟採集民たちだけだった。
科学者たちも、オレリャーナは嘘をついたに違いないとの結論に達した。その理由は農業にある。いかなる文明であれ、その誕生のコアには農業がある。生産性が高い農業がなければ、大量の人口を養えない。熱帯雨林は一見生産的に見えるが、その土壌は農業には適していない。近代的な化学資材を用いても、アマゾンの痩せた土では、持続的な食料生産ができない。
「アマゾンで持続可能な農業を開発するためのあらゆる努力は失敗している」
スミソニアン学術協会(Smithsonian Institution)のベティ・メガーズ(Betty Meggers)教授もこう述べている。狩猟採集生活の先住民たちが繁栄し、都市文明を築けるはずがない。それが、ほとんどの科学者たちの合意だった(3)。
古代ボリビア文明の発見
だが、1960年代に考古学者ビル・デネヴァン(Bill Denevan)は、モホス平原(Llanos de Mojos)に、奇妙な直線の縞パターンがあることを指摘する。モホス平原は、オレリャーナが航海したアマゾン下流を2,000kmも遡ったボリビアにあるサバンナ草原だ。洪水と乾燥が繰り返される極端な気候条件のために作物も栽培しにくく、わずかな人しか住んでいない。
だが、ペンシルバニア大学博物館(University of Pennsylvania Museum)の考古学者クラーク・エリクソン(Clark Erickson)は、このデネヴァンの発見をさらに探求する。エリクソン博士がまず関心を寄せたのは、広大なサバンナ平原に点々と数多くの森がつらなっていることだった。そして、このオアシスからは、明らかに人類が居住したと見られる痕跡や有史以前の土器破片も見つけ出される。陶器の数は、狩猟採集民たちが使うにはどうみても多すぎ、高さ18mもの土手すらあった。1617年にスペイン人たちによってなされた遠征も、村々をつなぐ高い土手について記録している。それは、恒久的な居住地、何千人もの人々が集まる文明がかつてあった証拠だった。
シリオノ(Siriono)族たちが使う言葉も、過去の手がかりとなる。トウモロコシや綿、染料植物についての単語があることは、以前には数多くの作物が栽培されていたことをほのめかす。チューレーン大学(Tulane University)のウィリアム・バリー(William Balée)教授は、2千年前に栽培された植物の言葉すらあると述べている。
人類学者マイケル・ヘッケンバーガー(Michael Heckenberger)も、中央アマゾンでクイクル(Kuikuru)族と遭遇したとき、その複雑な社会構造に驚かされた。アマゾンの狩猟採集部族は小規模で平等なものだというのが、それまでの見解だった。だが、ヘッケンバーガーにすれば、クイクル族の階層構造は、どうみても300人規模のものではない。クイクル族は人類学者の言う採集狩猟民(semi-nomadic wanderers)ではなく、かつては、今の何倍もの規模の複雑な社会、オレリャーナが言う「先進社会」に暮らしていたことを思わせる。
エリクソン博士とバリー教授は、平原に残る直線的な土手が洪水を保護するために人工的に構築されたものだと解釈した。それと並んで走る運河も、かつては管理された潅漑があった名残りであろう。そして、上空から平原に見られる縞のパターンも高畝圃場システムの遺物であることがわかってきた。その広さは何千平方キロにも及ぶ。
「これはエジプト人たちがやったことに匹敵する仕事です」
エリクソン博士は言う。 つまり、かつて、ボリビアには巨大な文明があったのだ。だが、灌漑や圃場の遺跡があったとしても、農業に適さない熱帯で、なぜかつては何十万人もの人々を養うことができたのだろうか(3)。
奇跡の土壌テラ・プラタ
森を切り倒し焼き払う。いわゆる焼畑農業は持続可能な農法ではない(3)。熱帯雨林の土壌は脆弱で痩せており、森を切り倒せば、強い日差しや豪雨にさらされた土壌からは、養分やミネラル分が豪雨によってたちどころに溶脱していく。後には砂漠化した不毛な土地しか残らない(4)。ほとんどのアマゾンの土地では一作以上できないし(1)、化学肥料を用いても、同じ場所では三作の収穫すら維持できないことが研究からもわかっている(3)。要するに、大規模農業を行うことはできないというのが、エコロジストの常識的な見解だった(4)。
だが、1950年代に、まだ駆け出しの研究者であったオランダの土壌学者、ビム・ソンブルク(Wim Sombroek)は、アマゾンの地を旅し、驚くほど豊かで肥沃な土壌を発見する。ソンブルクは、後に国際土壌照会情報センター(ISRIC =International Soil Reference and Information Centre)の所長、国際土壤科学学会(International Society of Soil Science)、現在の国際土壌科学連合(International Union of Soil Sciences)の事務局長となる人物だが、彼の1966年の著作『アマゾンの土』(Amazon Soils)が(4)、ブラジル人たちが「テラ・プラタ(Terra Preta)」と呼ぶ(現在は、ADE= Amazonian Dark Earths)奇妙な土壌(1)について初めて報告した研究リポートとなった(4)。
この黒色の土は、農業に不向きなはずの熱帯でも豊かな収穫を保障する(4)。例えば、ブラジルのアマゾン中部、アクチュバ(Açutuba)では、40年も無肥料で農業ができた(1)。 博士号のための研究をして以来、テラ・プラタに魅了されたバイロイト(University of Bayreuth)大学のブルーノ・グレイザー(Bruno Glaser)博士は、その地力は、地球上で最も肥沃とされるモリソル(Mollisols)やチェルノーゼム(Chernozems)に匹敵すると語る。
「隣接した痩せた土地ではタピオカしか栽培できないのに、テラ・プラタでは、パパイアやマンゴー等、数多くの換金作物を栽培できるのです。マメや穀類の収量も肥えた土地の倍もあります。おまけに、テラ・プラタには、周囲の土壌より約3倍も多くの有機物、窒素、リンが含まれています。さらに、並はずれた特性としてバイオ炭(biochar)があります。それ以外の土壌より70倍も多い平均50t/haのバイオ炭が含まれているのです」(2)
ブラジルの農業研究公社(Embrapa)の土壌研究者、ベンセスラウ・テイヘイラ(Wenceslau Teixeira)も、熱帯土壌には一般に乏しいリン、カルシウム、亜鉛、マンガン等の元素が豊富に含まれていることを指摘する。おまけに、普通の熱帯土壌と違い、強い日差しや豪雨に何百年もさらされているのに地力が落ちない。テイヘイラ氏は、マナウス(Manaus)にある農業公社の施設にテラ・プラタの畑を作って試験を行い、その地力の回復力に驚かされた。
「単年作物を栽培して強い日差しや雨にさらすことは、土を破滅させるもので、熱帯では絶対にやってはいけないことなのです。ですが、私たちは、40年も、コメ、トウモロコシ、タピオカ、マメなどあらゆる作物が栽培できたのです」
テイヘイラ氏は、いま、バナナ他の熱帯作物の試験も行っている(4)。
先住民たちの炭焼きが作り出した人工土壌
この驚異的に生産性が高い土壌がなぜアマゾンにあるのか。それは何に由来するものなのか。その正体を巡っては、数多くの論争がなされてきた。だが、今では、この土壌がアマゾンに住む先住民たちによって人工的に産み出された産物であることがわかっている(1)。 例えば、考古学者のビル・ウッズ(Bill Woods)は、ブラジルのタパジョス(Tapajos)川に沿って、数多くの二千年前の遺跡を見つけ出したが、人々が居住していた土地の土壌は、なぜか近隣の熱帯雨林のそれよりもずっと黒く、厳密な研究から、色の違いはあってもそれは周囲の土壌と同じもので、ただバイオ炭を加えただけのものであることが示された(3)。そして、テラ・プラタには、先史時代の陶器の破片が埋まっているし、人が居住した痕跡があるところでしか見つかっていない。すなわち、テラ・プラタは人工土壌であって、古代の遺跡なのだ(4)。 グレイザー博士は言う。
「今は、テラ・プラタが人造である科学的な証拠が十分あります。私たちは、テラ・プラタから、陶器の破片、人骨、人間の排泄物、獣骨、亀の甲羅の断片等を見つけています」(2)
アマゾンに人々が住み始めたのは、今から1万年前にさかのぼるとされる。そして、テラ・プラタは、今から500~2500年、あるいはさらに以前から作られたとされる(1)。グレイザー博士は言う。
「先住民たちは、紀元前4,000年も前から西暦1492年にかけて、テラ・プラタを作り出しました。旱魃や降雨、そして、熱帯の暑さを2千年も耐え、今も地力を維持し、腐植を保っていることは驚くべきことです」(2)
有史以前からアマゾンの先住民たちは、大地を変え、そのテラ・プラタが永久的な農業を支えてきたのだ。そして、その範囲も驚くほど広い。 考古学者たちは、テラ・プラタの分布状況を調査し、オレリャーナが報告した場所と関連していることも見つけ出した。その地域は広大で、イギリスの倍もある(3)。カンザス大学の地理学者で土壌科学者であるウィリアム・I.ウッズ(William I. Woods)教授は(4)、「最大でアマゾンの10%の大地がテラ・プラタに覆われています」と述べる(3)。
グレイザー博士は、その範囲は誰にもわからず、さらに広いと指摘する。
「最近アマゾン中部に400kmのパイプラインを敷設する調査で、新たなテラ・プレタがパイプラインに沿って10~20km毎に発見されました。ですから、アマゾンのすべてにあるのでしょう」(2)
バーモント大学(University of Vermont)の考古学者、ビル・ピーターセン(Bill Petersen)は、今では、オレリャーナの指摘が事実だったと考えている。だが、もし、オレリャーナが真実を語っていたとすれば、彼が説明した住民たちは一体どこへ行ってしまったのだろうか。悲惨なことだが、ヨーロッパ人たちは、先住民たちに抵抗力がない病気、天然痘(smallpox)、インフルエンザ、はしか(measles)をもたらした。つまり、オレリャーナは、アマゾン古代文明を眼にした最初で最後のヨーロッパ人となったのだ(3)。
生きている土
だが、アマゾンの先住民たちが残した遺産は、今も生き続けている。テラ・プラタを分析した土壌科学者は、その驚異的な特性、とりわけ、何百年間もその養分レベルを維持する性能に驚く。しかも、テラ・プラタには、さらに顕著な能力がある。まるで生きているかのように、年々肥沃な地力を保つのだ(3)。 例えば、テラ・プラタは、その高い生産性から、現地では掘削・販売されている(2,3)。スポーツ用の芝生用途では約600ドル/トン、インターネット上では250g/44ユーロだ。だが、ブルーノ博士は、こう語る。
「販売目的で採掘し、わずかの層しか残さなければ、それは再生しません。投入された以上に養分を取り出しても永続できません。ですが、植物が成長できる気候条件が存在する場所で、養分が投入されるよりも少ない範囲で抽出する限りは、蘇えることができるのです」(2)
ビル・ウッズも、商業的に土を採掘している地元の農民に出会ったが、20cmのテラ・プラタを乱されないまま残しておけば、約20年にわたって再生されるという。ウッズは、バクテリアと菌類の組み合わせが、この効果を引き起こしているのではないかと考えている(3)。 実は、テラ・プレタの能力の鍵を握るのは、低温で燃焼させた植物や廃物で作られた炭なのだ(4)。グレイザー博士によれば、テラ・プラタは、炭や不完全燃焼させた木片を多く含む。それが、土壌中に養分を保ち、毎年地力を支えているのだ(3)。
2006年に米国とブラジルの研究チームの試験からもわかるように、テラ・プラタは今も生きており、通常の熱帯土壌よりも、はるかに微生物の数も種類も多い。熱帯土壌は農地に転換すると微生物が急速に失われるが、炭があると養分が吸着し流失せず、土壌中に細菌が棲息するための空間も供給される。 2007年3月、ドイツのバイロイト大学のクリストフ・シュタイナー(Christoph Steiner)が率いる研究チームは、通常の劣化した熱帯土壌に炭の粉と木酢液を加えるだけで、微生物が飛躍的に増殖しはじめ、肥沃な土壌を産み出す生態系がはじまると報告している(4)。試験区では、肥料だけに比べ、土壌に炭と肥料を組み合わせると収量が880%も伸びた。
オレリャーナは、先住民たちが農地を造成するために火を使ったと報告している(3)。それが、炭の機能を知ってのためのものかはわからない。 グレイザー博士は言う。
「おそらく、最初のテラ・プラタは、骨や生ゴミ等を偶然に加えることで出来たのでしょう。そして、大量の炭は、料理や霊的な目的で低温の炎で作られたものなのです」(2)
ブラジル・サンパウロ大学の考古学者、エドゥアルド・ゴエス・ネベス(Eduardo Göes Neves)も、先住民たちが、意識して土壌に炭を入れたことまでは確認できず、家庭ゴミを処分する中で、偶然にできたものかもしれないと述べている。だが、結局は、それが農業生産を支える資源となったのだ(4)。
世界が着目するテラ・プラタ
中国やサヘル地域でなされている土壌回復プログラムがそうであるように、現在の多くのプロジェクトは、ただ劣化した土壌を以前の水準にまで戻そうとする試みだ。だが、熱帯地域の土壌の多くは、もともと生産性が低く自然状態では痩せており、それが貧困の一因にもなっている。つまり、元に戻すだけでは十分でない。 テラ・プラタを発見したソンブルグは、痩せ地を沃土に変える秘密がテラ・プレタに隠されているのではないかと考え、その謎を解くことで、テラ・プレタを現代に蘇えらせたいと考えていた。緑の革命が開発途上地域の作物の収量を劇的に改善したように、「テラ・プレタ・ノバ(Terra Preta Nova)」―新しいテラ・プレタによって、最貧国の人々が自給できると信じていた。 ソムブルクは、その夢の実現を目にすることなく、2003年に死ぬ。だが、テラ・プレタの起源や機能を調査する国際的な共同研究を発足させることに尽力していた(4)。 そして、ブルーノ博士は、いまテラ・プラタが復活しつつあるという。
「私たちの科学的な広報もあって、いまアマゾンの人々は、自分たちの文化遺産を意識するようになり、新たにテラ・プラタ・ノバを作り出そうとしています。私が1996年にアマゾンで働きはじめた頃には、わずかな人たち、日系移民ぐらいしか、テラ・プラタの高い生産力のことを知りませんでした。ですが、今では、アマゾンだけでなく、全世界が、テラ・プラタに着目し、それを模写しようとしているのです」(2)
テラ・プラタは、地球温暖化を防止する一助にもなる。現在、農業は人為的な地球温暖化ガスの1/8以上を発生させている。深耕によって土壌に含まれていた有機物が地表に出れば、二酸化炭素が放出される。だが、ソンブレクは、世界各地でテラ・プラタを作り出せば、それは、土壌からの二酸化炭素の放出を相殺できると主張していた。 ウィリアム・I.ウッズによれば、炭を豊かに含むテラ・プラタは典型的な熱帯土壌よりも炭素が10~20倍も多い。そして、2007年にコーネル大学の土壌科学者ヨハネス・レーマン(Johannes Lehmann)は、科学誌「ネイチャー」で、林業や休閑中の圃場、単年作物から発生する残渣を炭にするだけで、米国が化石燃料で放出している炭素の約3分の1を相殺できると主張した。レーマンらは、テラ・プラタ・ノバに炭素を隔離することで、全世界の化石燃料から発生する二酸化炭素を相殺できると主張している(4)。
テラ・プラタは温暖化に対する耐性もある。ブルーノ博士はテラ・プラタへの期待をこう語る。
「私は抵抗力があると確信しています。なぜなら、土壌侵食については地球上で最も極端な環境に作られたものだからです。アマゾンの典型的な土壌フェラソル(ferralsols)が地上で最も痩せた土であることが、この明白な証拠です。今後の農業は、極端な気候変動、旱魃、豪雨、高温等の課題に対処しなければならなくなるでしょう。人口増加や砂漠化で農地への圧力も高まります。テラ・プラタは、こうした課題を緩和する一助となりましょう。テラ・プラタは、持続的農業のモデルです。砂漠化した土地の農地利用や炭素隔離と地力の維持と増加を通じて、気候変動緩和など、数多くの21世紀の問題を解決できるのです」
そして、テラ・プラタは他地域でも使えると述べる。
「ドイツでは、私たちは、いま、テラ・プラタ・ノバ生産のための工場を設立しています。また、その保水力がある特殊構造から、例えば、エネルギー植物ジャトロファ属(Jatropha)の栽培のために、アフリカの乾燥地帯で、テラ・プラタ・ノバの可能性をテストしているのです」(2)
国際的に、あらゆる分野の研究者たちが、いま、グローバルに保全されるべき世界的遺産として、テラ・プラタに着目している。アマゾンに見られる風化が進んだ土壌や熱帯気候条件は世界の多くの地区にあるし、テラ・プラタに見出される土壌類型は、最大90%が砂、最大90%が粘土質とあらゆる土壌を含むのだ(1)。テラ・プラタの再生に成功できるならば、コンキスタドールたちが求めた、金よりも貴重な遺産が、もたらされることとなる。それは、開発途上地域中の人々を養う助けになろう(3)。アマゾンには、やはり幻のエル・ドラードが眠っていたのである。
【引用文献】
(1) Terra Preta –Amazonian Dark Earths (Brazil), GIAHS, FAO.
(2) Terra Preta - Amazonian Earth
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