古代の先住民は、自然と調和して生きていたと考えがちだ。だが、こうしたロマンチックなイメージは1990年代に打ち砕かれる。数多くの文明が、農業を通じて土壌や環境を破壊してきたことが研究から明らかなってきたからだ。だが、テラスを構築することで破壊された土壌浸食を食い止め、植林によって荒廃した土壌を回復させた古代文明もある。インカだ(2)。
ペルー南部のクスコから北へ12km。海抜3300mのパタカンチャ・バレー(Patacancha Valley)は、聖なる谷(Sacred)の支流で、現在もそうだが、インカの時代にも聖なる谷はトウモロコシ生産で最も重要な地区のひとつだった。ここにマルカコチャ(Marcacocha)という直径40mほどの小さな湖がある。小さいために、広い内湾よりも地域の陸生植物の変化を敏感に記録するが、湖泥のコアの花粉分析で、4000年間以上にわたる環境変化がわかってきたのだ(3)。
インカのアグロフォレストリー
インカには文字がない。環境に関する文字情報が得られるのも1530年以降のことで、かつ、ネイティブやスペイン人たちのスペイン語の記録に限られる。インカにやってきたスペイン人たちは、ほとんど樹木がないむき出しの丘陵地を目にしている。だが、同時に何千もあったインカの倉庫(qollqa)についても報告している(3)。
インカは、スペインによって1533年に滅亡する(4)。だが、スペイン人たちがやってくるまでは、帝国はコロンビア南部からチリ中央部まで広がり、3000万人を支えていた。インカは70もの作物種を栽培していた。その倉庫は10年間分も国民を養えるほどの供給力を持っていた。しかも、10年分にも及ぶ燃料用の薪(lena rajada)もあったという(3)。
これほどの薪があったのはなぜなのか。
「多くの人々がいたにも関わらず、樹木が残されていたという事実は、彼らが何かをしたことを意味します」
イギリスのベルブロートン(Bellbroughton)にある古代農法の復活農村開発プロジェクトクシチャカ・トラスト(Cusichaca Trust)の代表で、考古学者のアン・ケンドール(Ann Kendall)は言う。研究者たちは、インカには、森林を保全するシステムがあったに相違なく、それが、急斜面で土壌を安定させたと考えている(2)。リマにあるフランスのアンデス研究機関のアレックス・チェップストウ・ラスティ(Alex Chepstow-Lusty)(4)は、木材を生産し、土壌を安定させる手段として、アグロフォレストリーを行っていたと指摘する。燃料や木材需要を満たすため、森林を重視し(3)、土壌が浸食された土地でもよく育ち、窒素を固定するハンノキ(Alnus acuminate)を山腹に植え(4)、アグロフォレストリー(Alnus cultivation)が試みられていた、というのだ(2)。
植林の伝統があったことは、ケチュア語に天然林(sacha)とは別に、栽培される木を意味するマルキ(mallqui)という言葉があることからもわかる。マジュキは死んだ先祖を意味するが、それは、森を保持してきた先祖を崇敬していることも示している。 インカの人々は樹木を高く評価していた。インカ文化では薪はシンボルとされ、高官の結婚式では、純金で作られたように金メッキされた薪が使われた。庶民の結婚式では、肉やコカが花嫁の贈り物であったが、それ以外に、「Urutne」と呼ばれる根の薪か、それがなければ、材木となるハンノキの在来種(native alder)であるアリソ(aliso=Alnus acuminata)が贈られた。
インカでは森林は国有地だった(3)。アグロフォレストリーは、皇帝自身が監視し、違法に樹木を伐採したり、燃やしたものは、偉大な権威、mallki kamayocの前に連れだされ、判決を受け、死をもって罰せられたという(2,3)。
インカ人たちが森林資源を高く評価し、植林を行っていたことを実証する証拠は、歴史的な記録意外にもある。それは、花粉だ(3)。インカが登場する以前のコアには含まれていなかった(4)ハンノキの在来種(native alder)であるアリソ(aliso=Alnus acuminata)の花粉が、西暦1100年から突如として現れるのだ(2,3)。アリソは浸食された土壌で栄える窒素固定種だ(2)。 もちろん花粉の記録があるからといって、存在していた樹木がすべてわかるわけではない。
花粉の記録から、樹木が存在していたことがすべてわかるわけではない。多くの自生樹木種は虫媒花で、花粉が湖の沈殿物に堆積する確率が低いからだ。だが、アリソは風媒花だ。だから、それが、存在し、増えていることがわかるのだ。 例えば、西暦1100年のマルカコチャ(Marcacocha)湖の堆積物を見ると、テラスや植林等の技術が重要視されると、土壌侵食が激減していることがわかる。また、攪乱の指標であるブタクサ(Ambrosia)も一般的にはない。 他にも証拠がある。マンタロ・バレー(Mantaro valley)のさらに北方のパンカン(Pancan)遺跡の発掘現場の近くに位置する標高3600mにある小さな湖ラグナ・パカ(Laguna Paca)だ。ここでもほぼ7.5mの完全な湖泥のコアが得られるが、約1000年前からアリソが急増したことを示す。人口が急増し、木材消費量が増加したにもかかわらず、アリソの密度が比較的一定であったことを花粉は示す。
インカはその土地管理プログラムの一貫として植林を始める。この早期の管理は、食料や燃料用樹木の生産性を高めるための実用的なもので、生物多様性に懸念したものではなかった。だが、インカは数多くの樹種を植え、数多くの作物種を栽培していた。そして、植樹は山地丘陵の土壌を安定させることにも使われていた。
森を破壊したスペイン人
このようにアグロフォレストリーは、アンデスでは長い伝統を持っていた。だが、1530年代にスペイン人がやってくると、土地利用は一変し、森林資源は過剰開発され(3)、スペインがインカに征服された後はテラス農法も劣化していく(2)。
森林資源が急減したことは、歴史的な記録からもわかる。1460年にインカによって征服されたワンカ(Wanka)族は、その後、スペインと同盟する。 この供給のことを結び縄文字で記録し、これが、スペイン語に転写されている。マンタロ・バレー(Mantaro Valley)、インカの行政単位では、ラグナ・パカ(Laguna Paca)近郊のアタン・クアウサ(Hatun Xauxa)の北端から、1533年には、200,071 荷(fardo)の割った薪がスペイン人たちに提供されている。 この単位は現在の人間が背中で運べるもので、12~15kgに相当する。スペインがやってくる以前もワンカ族たちは自分たちのニーズを満たしながら、捧げ物として大量の木材をインカに提供できていた。だが、1537年には、この積荷が17,000と劇的に落ち込む。これは、一定領域での伐採が急速に起き、森林資源が急減したことを示す。フランシスコピザロが、わずか2年でHatun Xauxa を去り、1535年にリマに移住した理由のひとつも谷内の薪不足にあったと記録されている。 この木材の種類は結び文字からはわからない。だが、ハンノキの一種、アリソ(aliso=Alnus acuminata)が薪の重要な要素ではあったろう。事実、地区に植えられていたアリソが、インカ征服の50年後に減少していた記録が残されている。
例えば、優れた炭原料であったことから、クスコにたどり着いてわずかの期間に、スペイン人たちはコショウボク(molle=Schinus molle)をほとんど切り倒してしまう。もちろん、彼らも植林の必要性は自覚し、1590年にクスコ近郊の谷で再植林計画を立て、スペイン人の監督下2400本が植林された。だが、製錬、レンガ、石灰製造(lime manufacture)、製パン、地中海型のストーブと大量の木材需要を考えれば、この程度の植林は焼け石に水だった。
スペイン征服の100年後、1639年にパドレ・コボ(Padre Cobo)は、インディアンたちの世帯の一月分の燃料をスペインの家庭が一日で使ってしまうと述べている。
スペイン人たちは、戦略的な植林によって管理されていたインカの景観を理解できなかった。最も肥沃な土地はスペイン人たちが取得した。先住民たちは以前の土地を使えなくなり、生産性が低い高地へと追いやられていく。スペイン人たちの征服で、土地管理のインフラが破壊され、新たな病気による急速な人口の減少をもたらした。植民地支配の1世紀以内にペルーの原住民は、900万から60万人に減ったとされている。 ユーラシア大陸から導入された家畜や作物で生物多様性は失われ、土壌侵食が進んでいく(3)。スペイン人たちが燃料用に急速に樹木を伐採したため、アリソも消えうせる(4)。今は、マルカコチャ(Marcacocha)近郊にはまったく、パタカンチャ(Patacancha)・バレーのような(3)、いくつかの遠く離れた峡谷にしか点在していない(2)。
自然を破壊していた古代農業
スペイン人たちとは異なり、インカは環境マネジメントでは成功していた。人工のテラス、潅漑システム、そして、人口管理を通じて、土壌浸食を引き起こさずに食料を生産することに成功していた(3)。だが、スペイン人だけを酷評するのは酷かもしれない。インカ以前のアンデスの人々も同じ失敗を犯してきたからだ。
例えば、コアの最下位層は、放射性炭素から4000~1900年前のものであることがわかる。チェップストウ・ラスティらは、このコアから、撹乱された土壌に生える雑草、牧草や古代人たちの主食であったキノア大量の花粉を見つけ出す(2)。プレインカの4000年も前からアンデスでは農業が盛んだったのだ(3)。だが、1000年前までのコアには、周囲の山から岩石や砂が繰り返し湖に流れ込んでいる(2,4)。山地から洪水で土砂が流されていたのだ。この記録から、当時の農民たちは初歩的なテラスしか建設していなかったことがわかる。そして、1900年前には、寒冷化と土壌劣化で谷の農業は衰退する(2)。気候が冷却であったことは、マルカコチャに農業の痕跡が見られず、アンデス山地の氷河が拡大したことからもわかる(3)。
「ですが、土壌侵食は続きました」 とチェップストウ・ラスティは言う(2)。 アカザ科(Chenopodiaceae)のキノア(quinoa=Chenopodium quinoa)等の作物の花粉は見つかっても、樹木の花粉はごく稀で、1300~1000前もコアには大量の無機沈殿物が見られる。これも植生が乏しい脆弱な環境で放牧圧によって土壌侵食が引き起こされた結果だ。つまり、アンデスではずっと森林が破壊され、深刻な土壌侵食が問題となり、土地もさほど産出力がなかったのだ。だが、その後、気温が徐々に高まり始め、それとともに、ティワナク・ワリ(Tiwanaku/Huari)文化が谷で広がり始める(3)。
自然破壊型農業からテラス構築へ
西暦1470~1532年にかけ、インカ帝国は彗星のように繁栄する。だが、インカが急発展した理由は、その優れた社会組織と技術にあるとされ、十分説明されないままにきた。だが、アレックス・チェップストウ・ラスティは、その謎を解く鍵が気候変動にあると指摘する。 湖のコアは、西暦1100年頃から、湖周囲の景観が大きく変化し、農業が突然発展したことを示す。草食動物の糞を餌とする節足動物、ササラダニダニ(oribatid mites)も現れ出す。
「ダニは、ラマの糞を食べたです」
チェップストウ・ラスティは、ダニは湖の近くでラマが牧草されていた証拠だと言う(4)。 土壌侵食は急減し、トウモロコシ他の作物の花粉や種子も現れる。
「この時が、まさに土壌保全技術によって、地域で農業を行う組織的な努力が始まった時なのです」
インカは、高標高地域の河川や湖から、延々と水を引くため5.8kmもの運河を構築していた、と考古学者のアン・ケンドールは言う。そして、無数のテラスも整えた(2)。西暦1100年のマルカコチャ湖の堆積物を見ると、テラスや植林等の技術が重要視されると、土壌侵食が激減していることがわかる(3)。地区の居住の発掘からは、テラスが建設されると谷の人口が現代の約4000人の4倍に増えていたことが示唆される。土壌のダメージが少なくなり、多くの人々を養えたからだ、とケンドール氏は言う。
「テラスを構築するために、人々は、文字どおり、谷底や川床に崩れ落ちていた土壌を丘陵地に戻すために運びあげたのかもしれません」
ケンドール氏が推測すれば、 「何千ものテラスを築こうと人々が口にしたに違いないというのは私の推測です。ですが、テラスが機能することがわかったとき、人々はそれを発展させ続けたのです」
とチェップストウ・ラスティも言う(2)。
インカの発展を後押しする中世温暖期(Medieval Warm Epoch)と呼ばれる世界的に温暖な気候は、その後、約400年も続く。それまで、何千年も続いてきた冷涼な気候下では、行えなかった高地でも作物が作れるようになり、山腹にテラスを構築することも可能となった。アンデスの氷河からは融水の形で水が流れ、潅漑用水も確保できた。
「ですから、突然アンデスでは新たな領域で農業がやれるようになったわけです。高地でジャガイモ、下方地域でトウモロコシのようにです。農業用にテラスが設けられ、氷河からの多くの融氷水で、新たな潅漑システムも始まりました。すべては気温の上昇なくして不可能だったでしょう」
トウモロコシやジャガイモが増産されたことで、インカは広大な道路網を整備する活動に従事するゆとりができ、過剰な食料は軍の整備も可能とした。1400年頃から、インカがエクアドルからチリまで領土を急速に征服できたのはこのためなのだ(4)。
アリソは、この温暖化の中で自然に増えたのかもしれない(2,3)。研究者の中には、インカが意識的にアグロフォレストリーに取組んでいたわけでないと疑問視するものもいる。
「ひとつのコアは、前向きなマネジメントのケースにはならない」と、シカゴ大学ラテンアメリカ研究センターのアラン・コラータ(Alan Kolata)所長は言う。とはいえ、コラータもテラス等の古代農業が、土壌を保全し、作物生産を高めたことには同意する(2)。 植林が始まったのも、気候が冷涼であった西暦1000年以前ではないであろう。マルカコチャ湖の近くには、西暦1000~1460年の典型的な遺跡が数多くある。そして、アリソの花粉の増加に応じ、パタカンチャ・バレーで人口が急増加したことがわかる(3)。つまり、インカは植林等の保全に取組み、劣化した農地を復旧させたのだ(2)。
輪作と休閑でジャガイモ病を防ぐ
そして、インカ帝国で行われていた農業も合理的なものだった。スペイン人たちがやってくる以前に帝国の農民たちは、土地を休閑し、ジャガイモを輪作していた。例えば、山岳地域、ウチュクマルカン(Uchucmarcan)の農民たちが行っているのは、こんなやり方だ。まず、農地を1~3年耕した後、8年以上休閑地にしておく。そして、ジャガイモを栽培する場合も、一緒にアンデスの塊茎類、オカ(oca= Oxalis tuberosa)やマシュア(mashua= Tropaeolum tuberosum)を栽培し、次の1~2年はウルク(ullucu= tuberosum)を栽培するのだ(Brush (1977))(1)。
だが、ジャガイモには、ジャガイモシストセンチュウ(potato cyst nematode=Globodera rostochiensis)という厄介な問題がある。センチュウは地中で増え、例えば、乾土1g当たりに卵が100も存在する高密度状態になると収量を60%も落としてしまう。おまけに、宿主であるジャガイモが無い状態でも「シスト」という卵状態になって長ければ10年以上も行き続ける。シスト状態になると農薬にも強く、根絶が難しい(5)。 そこで、重要になってくるのが休閑と非宿主植物(nonhosts)だ。イギリスのローザムステッド(Rothamsted)研究所の研究によれば、7年間休閑すれば、シストセンチュウを経済的許容限界まで減らせるという(Jones 1970, Jones1972)。また、非宿主植物を栽培しても土壌中のセンチュウ密度が30~50%も減る(Brodie (1984))(1)。また、マシュアにも意味がある。マシュアが根からシストセンチュウを避ける分泌物を出していることが科学的に確認されているからだ(5)。
インカやプレインカの農民たちは、何世紀もの試行錯誤を通じて、長い休閑がジャガイモ栽培に必要なことを学んだのであろう。インカの休閑と輪作は、土壌浸食を減らすだけでなく、健全な病害マネジメントシステムでもあったのだ(1)。
旱魃で滅んだティワナク文明
後にインカ帝国を築きあげる人々は、帝国が発展する数世紀前からクスコ地域にいた数多くの部族の中にいたことが陶器のスタイルから判明している。そして、後に帝国が採用することとなったのは、彼らの土地マネジメントだった。
「なればこそ、早期の植林や自然再生の証拠と関連がある西暦1100年に私たちは関心があるのです」
チェップストウ・ラスティは言う(3)。そして、インカが二大ライバル、ワリ(Wari)とティワナク文明を制覇できたのも、気候の温暖化と乾燥化によると結論を下す(4)。この温暖期に伴う気候変化によって、チチカカ湖領域では旱魃が深刻化した。チチカカ湖の堆積物も変化し、湖水線が低下した明白な証拠となっているし(3)、マルカコチャ湖の南東200キロ、ケルカヤ(Quelccaya)の万年雪から抽出された氷床コアの気候データも、この時期に氷が解け、降水量が著しく減ったことを示している(3,4)。 この旱魃がティワナク(Tiwanaku)文明崩壊の一因となった。
ティワナク文明を支えていたのは、高畦圃場システムだった。だが、西暦1100年にはこの高畦圃場システムが大規模に放棄される。人々は土地を求めて北方へと移住したことであろう。北方のクスコ地域では、まだ季節的な降雨があり、氷河の融水によって補われ、農業が可能だったからだ。
そして、地球の臍を意味する「クスコ」設立のインカの神話も、何かの事実が根拠となっているのかもしれない。伝説によれば、インカ初代皇帝は、都市を設立する場所を探し求めて、大地を試すためにタパク・ヤウリ (Tapac Yauri) と呼ばれる黄金の杖を手に携えてチチカカ湖から北へと旅立ったという。そして、この杖が大地に沈む時、それが場所が見つかった印なのだった(3)。
古代農業を復活する
イギリス国際開発省(Department for International Development)が発表した数字によれば、ペルーの2400万人のうち49%が貧困だ。うち、最も貧しいのは、アンデスに住む先住民で、約66%の世帯が貧困と分類されている。その主な原因は、森林破壊、土壌侵食、不十分な水管理と地力劣化だ。そして、マネー経済も、資源をわかちあう生き方を変え、農村コミュニティや都市と農村を分極化させている(3)。
「古代インカは理想的な高地農業システムを構築していました。同じ戦略が、今のペルーの農民を助けるために有効かもしれません」
とチェップストウ・ラスティはいう。こうした古代の戦略は、いまも実用的かもしれない(2)。チェップストウ・ラスティによれば、スペイン人がやってきた後には、ダニが目に見えて減り、インカ文明の多くが破壊されたことを明らかにする。だが、1600年頃には、牛、羊、ヤギ、馬をスペイン人たちが持ち込んだことから、ダニは再び増えた(4)。
だが、スペイン人たちには、このインカの休閑や輪作は無意味な習慣のように思えた。6~8年もかける長い休閑や輪作農法は打ち捨てられ、アンデス山中の孤立したコミュニティでしかなされていない。以来、ペルーでは、ジャガイモシストセンチュウの大被害が生じるようになってしまった(1)。
チェップストウ・ラスティの解決策は、アマゾンから東に吹く湿度ある風を捉えるようにハンノキなどのように、自生樹木種の大規模な「再植林」だ。チェップストウ・ラスティは、再度、農業を支えられるよう、インカの運河やテラスの修理を推薦する(4)。
クシチャカ・トラスト(Cusichaca Trust)は、パタカンチャ・バレー(Patacancha Valley)で古代の方法でテラスを掘削し、それらを再建する計画に資金を出している。1995年以来、地元の農民たちは、運河を再建し、160haの古代テラスで、ジャガイモ、トウモロコシ、小麦を栽培している。それ以外の土地よりも、テラスは収量がよく、肥料も少なくてすむ、と彼らは言う。
「こうした人々は、何が機能し、何が機能しないかを何百年も学んできたのです」
フロリダ大学の地理学者、マイケル・ビンフォード(Michael Binford)は言う。
「もし、彼らがやってきたことに注意を向けるならば、私たちも何かを学ぶでしょう」(2)
【引用文献】
(2) Kevin Krajick, Ancestors of Science:Green Farming by the Incas?, Science Magazine, 17 July 1998.
(4) Andy Coghlan, Hotter weather fed growth of Incan empire July 2009.
(5) ウィキペディアより
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