1500年前の古代養殖
養殖業と畜産業、そして、廃棄物リサイクルを農業とつなげる。養殖業は重要な要素として、農業に組み入れることができる(1)。人類は各地で養殖を行ってきたが、食料源を確保するため、海岸から高地の森林まで、あらゆる水域を徹底的に利活用したのは、古代ハワイだけだった。 ハワイ、マウイ(Maui)、オアフ(O'ahu)、カウアイ(Kaua'i)、モロカイ(Moloka'i)、ラナイ(Lana'i)。これらハワイ諸島には、はるか昔から数多くの養魚池からなる巨大なシステムが設けられていた。神話や伝説に彩られ(2)、こうした池がいつの時代から構築されたのかは誰もわからない(1)。だが、説話(legendary literature)に登場する養魚池が14~19世紀の歴史的な出来事と関連していることから、少なくとも14世紀前には作られていたであろう(2)。
それは、疑問の余地なく、世界でも最も成功した養殖漁業の先進事例だった。ジェームス・クックが1778年にハワイを訪れた折、約360もの養魚池があり、年間に約900トンを生産していた。面積単位の漁獲量は、近代的な大規模養殖業に匹敵していたと評価されるが、今のように餌を過剰投与することはなかった(1)。養殖池の草食魚たちの食料源は、池で育つ選ばれた豊かな藻や珪藻、野菜屑等の有機物で、これもあって、海で捉える野生魚よりもタンパク質が100倍も多く含まれていた(3)。ハワイ人たちは、海洋漁業も行っている。だが、天候や波が荒れると漁にはいけない。だが、波が高い時も養殖池では魚が得られた(2)。魚だけでなく、エビやカニ等の甲殻類も簡単に得られた。ハワイ社会が生き延びるうえで、養殖池の果たす役割は極めて大きく、池のおかげで人々は自給できた(3)。
魚に虫を食わせ害虫を防ぐ
養殖池は、池を意味するロコ(loko)、あるいは、よりはっきりと養殖池(loko i'a)と呼ばれていた(2)。そして、塩分濃度の違いによって、海岸池、汽水池、タロイモ池、その他淡水池と四タイプがあった(1)。
うち、最も一般的なものは、湾の狭い河口に壁を構築したり、海岸線に沿って半円型の壁を築くことで、構築された海岸沿いのロコ・クアパ(Loko kuapa)だった。クアパの規模は0.4~210haと様々だが、大きな池の壁は長さ数キロにも及んだ(3)。 壁は、幅0.9~5.8m、高さ0.6~1.5mもあったが、波浪に耐えるだけの強度がいる。壁は珊瑚と玄武岩溶岩を組むことで作られ(3)、中には荷重500㎏もある石もあった(1,3)。そして、瓦礫の強度を高めるため、石灰を分泌するサンゴ藻がセメントとして使われた(3)。 池は外洋とつながり、水が淀むことはなかった。そして、海と池とをつなぐ水門には、シダで作られた格子が据えられた。水と小さな魚だけが自由に通ることができ、海から幼魚が供給される一方、池から大きな魚が逃げ出すことはなかった。少なくとも22種の海中生物が、池では繁殖し、網か手で捕獲できた(1)。 専門的な工学技術と洗練された養殖技術を持つ(1)ロコ・クアパは、他のどのポリネシア社会に見られないハワイ独自のものだった。また、満潮時には水没する低い塀を構築したロコ・ウメキ(loko 'umeki)もあった(3)。
それ以外の淡水池は、海岸近くの自然の池や窪みを利用して築かれた(1,3)。雑草他の植物を刈り払い、必要な深さまで地面を掘削し、掘り出された泥が堤防づくりに使われた。 内陸池にはプオネ(pu'uone)、ロコ・イアコロ(loko I'a kalo)、ロコ・ワイ(loko wa'i)の3タイプがあった。
プオネは、構築や維持にさほど労力を必要とせず、平民たちが所有する小規模なものと、アリース(ali'is)が所有する大規模なものがあった(3)。いずれも、海岸近くに位置し、池の水源は、泉、河川、そして、地下水だったが(1)、アウワイ・カイ(auwai kai)と呼ばれる運河で海とつながり、潮が満ちてくると、海水が池に流れ込むようになっていた。ハワイ人たちは海水が魚を育てる助けとなり、より美味しくなると信じていたが、事実、海水は魚の生存に必要だった(3)。人々は、浅い海岸で獲った魚を水で満たした大きなヒョウタンで運んで池に入れ、淡水魚だけでなく、海洋魚であるボラ(mullet)、ブリ(silver perch)、ハワイハゼ(Hawaiian gobies)、サバヒー(milkfish)等が、これらの池で育てられていた(1)。
高地に位置するタロイモ養魚池、ロコ・イアコロは、谷川の水を利用した淡水池だったが、タロイモ栽培と統合されていた。たいがい、タロイモは、養魚池内に設けた土手に植えられ、た。近くの池から移された魚は、熟した葉軸やタロイモに棲息する昆虫を食べ、大きく育つことができた(1,3)。しかも、魚に葉を齧られたタロイモもよく成長し、魚なしで栽培したタロイモよりも病害虫が少なかった。ボラ、ブリ、ハワイハゼや、淡水エビ、アオミドロ緑藻類(spirogyra spp.とCladophora spp.)等の淡水魚が養殖されていた(1)。
伝統的コミュニティの崩壊で失われた技術
伝統的なハワイ人たちは、池の設計や維持だけでなく、在来魚への深い知識を持っていた。例えば、魚を集めるためには、パイパイ(pa'i pa'i)として知られる方法を使った。一人の男性が海面を叩き、怯えた魚を、網を手にする別の2人が捕らえた。この漁には女性も参加していた。 漁獲のほとんどは番所とされるマカハ(makaha)で行われていたが、満潮時にマカハにゆけば、すくい網の中には、キラキラときらめきく魚ですぐに籠がいっぱいになった。だが、この豊かな漁獲は、様々な伝統的なタブーや掟によって維持されていた。 ボラは、アママ(Ama'ama)と呼ばれ、人間から生まれたと信じられ、非常に大事にされた。また、パピオ(papio)は戦士と関連する魚で女性が食することが禁じられていた。モイは酋長だけが食べられ、平民には禁じられていた。養殖池の建設の日時も祈祷師が占い、完成時には豚が生贄にされた。だが、こうした風習には合理的に意味があるものもあった(3)。
例えば、養殖池は、食用魚を育てる場であったが、タブーとされた魚、カプ(kapu)の住む場でもあった。魚の産卵期は、すべての魚がカプとなり、特定の時期には、土地の一部とされていた養魚池を除いて、酋長も平民も一切海では漁が禁じられていた(2)。 養魚池には、家畜や人間排泄物を入れることは認められず、刈り草、イガイ、二枚貝、海草やタロイモの葉が餌となった。汚水やゴミで池を汚染することは、宗教的制裁によって禁じられていた(1)。
ロコ・カウパの建設や維持も伝統が関係していた。ほとんどのロコ・クアパは、アリース(ali'is)と呼ばれる酋長が所有していた。酋長が統治していたため、ハードな養魚池の建築作業も可能だった。作業は長く1年以上がかかることもあったが、池構築には集落全員の参加が義務づけられていた。重い石も人々が長い列に並び、手から手へと渡すことで運んだ(3)。 具体的に養魚池の建設を担当したのは、コノヒキ(konohiki)と呼ばれる土地の管理者だった。だが、コノヒキが養魚池を独占することはなく、彼の権利は自分用にただ1種類の魚を「カプ」とすることができるだけだった。建設工事で働いた全員が、収穫権を持っていた。厳しい工事もコミュニティ全住民のためのものであり、なればこそ、全員の協力で築き上げられた。だが、だれも自分が必要とする以上の魚は獲らなかった(2)。
酋長が統治する養魚池は、古代ハワイの景観の一部となっていた。輸入飼料を必要せず、エコロジー的にも優しく、集約的な農業よりも経済収益性も高かった。 だが、ハワイが米国に占領されると伝統的な水産業は崩壊する。酋長は権限を失い(1)、平民を統治できなくなったため、池の維持管理もできなくなった。養殖池の多くは死に絶え、外国人に売り払われた。市街化や住宅他の開発で多くの養魚池が破壊され、生き残った池も移入種、とりわけ、マングローブが問題を引き起こした(3)。伝統的なハワイの養殖システムは、科学研究機関からもほとんど関心がもたれることがなく、1985年時ではわずか7池しか残されていない(1)。ハワイの近代化は伝統文化を根絶やしにしたのみならず、1500年以上も続いてきた持続可能な水産技術も葬り去ってしまったのである。
【引用文献】
(2) History of Ancient Hawaiian Fishponds, Kamehameha Schools.
(3) Shannon Bucasas, Hawai'ian Fishponds, Horizons 2002.
養殖池の写真は(1)のサイトから
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