コミュニティの力を信頼する
ラヘンドラ・シン(Rajendra Singh)氏は、旱魃に苦しめられてきたラージャスタン州東部の水保全に成功した(2)。シン氏が働き始めたときには、地域は深刻な水不足で地下水位が低下する「ダーク・ゾーン」と政府から分類されていた。だが、10年後には、地下水位は満足できるレベルまで回復し、政府からのケアが必要とされない「ホワイト・ゾーン」と分類されたのだ(5)。 アラヴァリ川の奇跡は国際的にも着目され、数多くの賞を受賞した(1)。シン氏は、占い棒で水脈を探る人(water diviner)、奇跡を行う人と称賛され(2)、この成果から2001年にローマ・ラモン・マグサイサイ(Roman Magsaysay Award)も受賞している(2,5)。 だが、ラヘンドラ・シン氏は受賞に際し、ラージャスタン州の人々の伝統的な知恵が承認されたことでもあるとし(2)、「自分は単なるまとめ役にすぎない」と語っている(3)。
「これは農村コミュニティが認められたことなのです(2)。保全の奇跡は、私たちの組織で援助された村人たちの協力があってこそ可能でした。村人たちは、自分たち自身の生活水準の改善を試みながらも、忍耐とこだわりを示しました(1)。コミュニティは創造的で、社会変革をもたらす潜在力があるのです。私たちは、眠っている智恵の銀行を起こして、それが機能するように奨励しただけなのです」(3)
地元の行政当局は、死んでいた。そこで、ラヘンドラ氏らは、官僚機構を通さず、村人たちと直接対応した(5)。
「仕事に着手したとき、私たちは、政府の援助計画とはまったく異なる戦略を採用しました。私たちはどんな活動であれ、村人たちをステークホールダーにします。それがその長期的な持続性を確実にするのです」(1)
最初のジョハドは完成に3年を要したが、4年目に50のジョハドが築かれ、5年目には、約100もが築き上げられた(5)。
「最初のゴパルプラ村では、成果を収めるのに3年かかりました。ですが、翌年には45カ村で同じことが達成できました。それは、村人たちの積極的な参加によって可能になったのです。成功の秘訣は、関心を持つ人に知らされ、サクセス・ストーリーが隣接する村が手を携えて、別の成功に向けて努力するのに影響を及ぼしたのです」
ラヘンドラ・シン氏は、活動状況を把握するため、村人の一員となり、同居して暮らした。
「ですが、演説では、これは達成できません。土や水についてコミュニティがどう考えているかを理解した後でのみ、方法論は決められるべきなのです。そして、住民たちと一緒に暮らしてみなければ、水資源と土との関係は理解できません。 どんな仕事であれ、伝統的な知識を用いることがとても大切です。タルン・バラタ組合は、なんら外からの援助を用いませんでしたが、ローカルな知識が適用されているときにのみ、仕事は持続可能で反復可能となるのです」(3)
ジョハド建設で受益者である村人たちが現金等で負担する経費は、建設費の4分の1から3分の1だ。残りの経費を負担するのは、タルン組合で、組合はフォード財団(Ford Foundation)、オクスファム(Oxfam)、様々なヨーロッパの政府機関、インド政府やラージャスタン州政府から援助を受けている。また、ラヘンドラ・シン氏以外のスタッフ全員は、村出身で、こうした経費が現金や雇用を村にもたらすことにつながっている。
だが、ジョハドを建設するための全労働力を提供するのは地元の村人たちだ。また、フルタイムのスタッフに加え230人のアルバイトもいて、何千人ものボランティアたちが、ジョハドの設計や建設を支援している。まさに、参加型の河川マネジメントがなされているのだ(4)。
外部からコンサルタントや技術者を招聘することもなく、ジョハドの建設地の特定から構造設計まで、コミュニティの積極的な参加によって建設がなされ、その工事費や維持管理費もコミュニティが負担し、自分たちが決めたやり方で、自分たちの必要要件を満たしたのだった(5)。
こうした活動が展開された背景には、ラヘンドラ・シン氏のキャリアがある。氏は、学生時代からジャヤプラカシュ・ナーラーヤン(Jayaprakash Narayan)のサムプルナ・クラニティ(Sampurna Kranti)全体革命運動に関わり、持続可能なやり方で天然資源を利用するために人々を動員する経験を持っていたのだ。
だが、ラヘンドラ・シン氏が、1985年に最初に村にやってきたときには、村は極端な困難に直面していたこともあって、テロリストとしてレッテルを張られた。 また、1990年代前半にサリスカ(Sariska)虎の聖域保全では、大理石の鉱山の利益と対立したため、鉱山の所有者たちから散々、悪口を叩かれた。ラヘンドラ・シン氏はこう想起している。
「ジョハドを建設した後も、サリスカ周辺の池や湖の水位は高まりませんでした。ですが、すぐに何が問題なのがわかったのです。失われた水をたどって、鉱山が掘った穴に集まっていたのです」
シン氏らは、問題をとりあげ、陳情書は最高裁判所でも争われ、1991年に、法廷は、エコロジー的に脆弱なアラヴァリ丘陵で採掘を続けないよう指示を出し、1992年5月には環境森林省が丘陵系での採掘を禁ずる通達を出した。最終的には公園にかなりのダメージをもたらしていた聖域周辺や緩衝地帯で運営される470もの砕石場が閉鎖することになるのである(2)。
地域の水文特性を理解しつつましく生きる
ジョハドが成功したことは、地域の水文特性を生かしたことにある。ラヘンドラ・シン氏はこう語っている。
「この17年、私たちはアルワル(Alwar)、ジャイプール(Jaipur)、サヴァイ・マドホプール(Savai Maadhopur)、カロリ(Karoli)と各地を乾燥化させてきました。ですが、100年の降雨チャートを研究すれば、降雨量が不規則にバランスしていることが見出せます。5~6年雨が少ない年の後には、2年ほど雨が多い年が続きます。このようにサイクルが繰り返されるのであれば、適切なやり方で雨水が格納できるならば、それは役立つようになるのです」
ラヘンドラ氏はそれ以外の地域でもラージャスタン州のように旱魃を克服することは可能であるとし、「確実にできます。インドだけでなく、アジア全域で可能です」と語る。
だが、野放図な水利用を認めているわけではない。
「とはいえ、水が限られた資源だと理解することが欠かせません。降水量と人口密度はバランスしていますが、水利用ではバランスが全くなく、誰もがさらに多くの水を欲しています。ですが、もし、私たちが貧者のギー(poor man's ghee)のように水を使えば、どの村も誰も、インドでの水不足に直面しないでしょう」(3)
インドで最も降水量が少ないのは、ラジャスタン(Rajasthan)州のジャイサルメル(Jaisalmer)とバドメール(Badmer)の乾燥地帯だが、そこでは、各戸毎に飲用や各家庭用の水槽があり、一般用途や家畜の飲み水用の池(talab)もあった。彼らは、地下にある砂から飲料水を得るために、塩分を帯びた帯水層を石膏の層で切り離すクインヤ(Kuinya)が用いられてきた。一方、ビハール(Bihar)州のように、水が過剰で毎年洪水に見舞われる地域では、溢れた水を収穫するアハル-パイン(Ahar-Pyne)と呼ばれる方法が開発されてきた。ガンジス川から溢れ出た水は、パイン(pyne)と称される水路を通じて最大30~40kmも運ばれ、アハル(ahar)と称される水桶を満たした。このことが年間を通じた水やシルトの持続的な分配を担保してきたのだ。
このように、インドの伝統的な英知は、自然とともに持続可能なやり方で暮らすために社会に役立つ実用的な方法を開発していた。アグロエコジー的な地域の気候区分の多様性を尊重し、厳しい気候や地理的条件の下でも、あらゆる地域に適した特定の科学や関連工学、技術体系を開発してきたのである。しかも、過去数千年にもわたって極めて健全な状態で、森林や水等の天然資源が保全されてきたことは、そこでは、人々が自然が持続的にもたらすモノの中で生き暮らし、貪欲になってはならないという環境に優しい伝統文化(dharma/parampara)があったためなのだ(5)。
伝統の損失とその結果
だが、過去200年は、この古代のバランスが乱れている。ラヘンドラ・シン氏は、産業革命、教育革命、緑の革命、開発革命、そして、民営化と情報技術革命と、ヨーロッパからもたらされた「自然を開発すべきだ」との開発思想が、自然に対する畏敬の念を台無しにしてしまったと警告している。
「植民地政府であれ、その後の独立国家であれ、近代国家は農村コミュニティから、その権利や責任を奪い去り、河川すらも法的(伐木許可、河川の直線化)に奪い取りました。 教育革命は、伝統や口頭の知識が貧困の原因であると人々を思い込ませ、近代教育や近代化へのうわべだけの夢が、コミュニティ組織を解体させています。独立後には、全権力を掌握した政府が、開発と社会主義的な「幸福」がケアされるとの幻想を推進しましたが、それも今や無能である現実が明らかになったため、資本主義の帝国となっています。ですが、多国籍企業や救いとなるとされるハイテク、遺伝子組換え技術やITは、さらに深刻な劣化をもたらしそうなのです」
ラヘンドラ・シン氏は、さらに事態を悪化させているのは、技術者の思想だと指摘する。
「教育を受けた技術者たちは、共有資源の責任あるマネジメントを再発見しているようにも思えますが、ジョハドのように立証された古代の伝統、ローカルの伝統を無視し、人工的な地下水涵養のようにより厄介な技術を作り出しているのです。技術者たちは、石灰や熱帯林の代わりにセメント、レンガのドームの代わりにコンクリートのスラブ(RCC= Cement Concrete)を用います。つまり、自分たちの限られた理解レベルまで、伝統やそれが持つ関連性を引き下げてしまうのです」(5)
そして、西洋社会には持続性がないと警告する。
「この長年にわたる社会の奴隷制度や否定的な力が、私たちの社会を身体障害者のようにしてしまいました。ですが、村は信頼の不足と戦っています。この状況で、もし、だれかが彼らのひとつとなり、モラルを高めるなら、社会は目覚め、新たな望みをもって働きます。私は彼らのための松葉杖になったのです。コミュニティがその強さを盛り返し、自立して働き始めるまでには松葉杖が必要です。今、私たちには、新たな熱意を支える十分な若い熱狂を手にしています。
今、私たちが西洋を目にする時、こうした国々は、それらを贅沢品に変換することで、その天然資源を完全に掘り尽くしています。このやり方では、天然資源は枯渇します。それは我が国のケースではありません。今や、私たちが私たちの洞察を用いて、適切に天然資源を利用するべき時なのです。今世紀は私たちのものになるでしょう」(3)
先住民の知識を再び覚醒する
インドには水を得るための様々な方法があった。すべてに共通するのは以下の通りだ。
- ローカル資源や技術の活用
- 分散型のコミュニティによって運営される水管理
- 天然資源の持続可能な保全や活用
- 先住民の知識を利用したシステムの復活
- 伝統的なシステムを理解した介入や先住民の知識の活用
- 土地、水、森林周辺でのコミュニティの参画
- 旧施設の修復と新施設構築への参加
- 村や流域レベルでの新たな組織の立ちあげ
ラヘンドラ・シン氏が、実践したようなやり方は、古くは、チャンドラーグプタ・マウリヤ(Chandragupta Maurya:紀元前321~297)のアドバイザーで、大臣でもあったカクティルヤ(Kautilya )が書き残した統治文、アルサシャストラ(Arthashastra)とも重なる。 アルサシャストラは、分権型で各コミュニティが運営する水管理の法的、経済的全範囲をカバーしている。
例えば、統治者は、水道建設に参加した人々に土地、道路、木、施設を提供しなければならなかった。参加しない人は、寄付金を支払わねばならず、施設の利益を得る権利も付与されなかった。また、所有権や新たな施設や古代の施設、修理された施設の維持も詳細に説明されていた。たとえ自分の水源がある場合でさえ、潅漑施設の全受益者は、税金を支払わなければならなかった。しかし、長年にわたって新たな施設を建築する人の税控除は承諾されていた。 しかし、こうした管理規定は、水道の経済的帰結をセーフガードする実際的条項にすぎず、真の動機はそれ以外のものからもたらされていた。コミュニティの池や水桶、そして、水道建設に参加することは、自尊心の問題で、宗教な働きとみなされていたのである。
また、こうした古代の伝統的工学の技術的側面は、実践や口伝えで伝承され、伝統によって徐々に完成させられたため、近代的な意味での記録はほとんどなされてこなかった。しかも、この知識はインドの伝統では、尊敬された年長者やグルの指示に基づく実践によって伝承されてきた。何世紀にもわたり、土壌、水、森林、野生生物、そして、環境全体を地元住民の共有の資産と考えることが、コミュニティが受け入れてきた世界観だったのである(5)。
ラヘンドラ・シン氏の活動は、教育や森林保護と多岐にわたり、薬用植物やその利用方法も研究している。ビーカムプラ(Bhikampura)には、タルン組合は、アーユルヴェーダのセンターと実験室もある。なぜなら、シン氏は大学院でこそ、ヒンドゥー文学を学んだが、大学時代の専攻はアーユル・ヴェーダ医学だったからだ(2)。
「もし、私がアーユルヴェーダの医師であれば、薬で数人の人々を治療したでしょう。ですが、今、私は人々の心を広げようとしています。これは、社会が信頼や責任感で前進する一助となるでしょう。私は人々のソウルを癒しているのです」(3)
【引用文献】
(1) Aman Namra, A river is reborn,The Hindu Business Line,June05, 2000.
(2) Volume 18 - Issue 17, Aug. 18 - 31, 2001.
(3) Civil Society Information Exchange Pvt. March 2002.
(4) Patrick McCully, Water-Harvesting in India Transforms Lives, World Rivers Review,Dec2002.
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