原始的な農業は、非生産的なものとして打ち捨てられがちだ。だが、実際は、未来への最高の希望をもたらすものなのだ。農民、ムディヤンセ・テネコーン(Mudiyanse Tennekoon)氏は、スリランカの伝統的な農村生活の予言者だ。氏は農民でもあり、クルネーガラ(Kurenegala)州の小さな村で暮らしている。近年、FAOやとりわけ世界銀行がスリランカに課す集約的な近代農業システムの破壊性や反生産性を認める人々の間で、氏はかなり知られるようになった。そこで、近代農業に批判的な2人の博識な男性とともに氏とインタビューした。一人は、第一首相の息子であるダドリー・セナナヤケ(Dudley Senanayake)氏の甥、ウパリ・セナナヤケ(Upali Senanayake)氏。もう一人は、スリランカの伝統的な暮らしの研究に余暇をささげる公務員、グナセカラ(Gunasekara)氏だ。
かつて人々は自給していた
この地域の平均的な農場はどれほどでしょうか。
平均的な家族は1ha以下です。
自給していますか。
いいえ。父の時代にはまさに自給していましたが、今は塩や衣服、同じくランプ用の灯油も買わなければなりません。
自分では作らないのでしょうか。
祖母は自分や家族用の衣服を自分で作っていました。村の背後にある焼畑をする森林、チェンナ(chenna)で綿を栽培していました。私たちはまだ焼畑はやっています。おまけに、昔は、ミーの木(Mee tree =Kaly)の実から抽出したミー・オイル(Mee oil)を作っていたので、灯油はまったく必要ありませんでした。
ミー・オイルは料理にも使っていたのでしょうか。
ええ、薬用にも使っていました。ココナツ・オイルも使いました。
インドのように、伝統的な物物交換を地元の職人たちともしていたのでしょうか。
ええ、10年前には村には陶芸家も鍛冶屋もいました。食料を提供することで、壺や道具と引き換えたものです。今は、町の店からこれらを買わなければなりません。おまけに、とても役立っていた粘土製の壺はもう得られないのです。 壺は特に何を入れるのに使っていたのでしょうか。 水をためるのに使われました。籾がらを入れ、それを燃やし、数時間たってから、洗い落とし、水を入れたのです。こうして水を冷やして保存していたのです。
それは素晴らしい。こうした知識は父親から息子へと伝承されていたのでしょうか。
もちろんです。すべての農民たちは、研究者で教師です。さもなければ、農民になれません。
土地や気候、用途に応じ300種類以上の米が栽培されていた
何種類のコメがここでは栽培されていたのでしょうか。
以前はスリランカでは280種が栽培されていましたが、今は15~20 品種しか残されていません。政府の政策によって、それ以外の品種は絶滅してしまったのです。* 私は、今、123種類の赤米を記憶していますが、残っているのはわずか3~4品種だけなのです。
*D.Drebergによれば、1974年には3~400の米品種が栽培されていた(superintendent of school gardens quoted in C. Wright, Glimpses of Ceylon)
こうした品種にはどのような違いがあったのでしょうか。
まず、北東モンスーンと関連したマハ(Maha)と南西モンスーンと関連するヤラ(Yala)という2度の栽培時期用に別の品種が必要でした。マハには、「4カ月」と呼ぶ品種を植えました。その名のように、生育には4カ月かかります。ヤラ期には「3カ月」の品種を植えました。マハ期の品種には、茶色のムルンガカヤム(Murungakayam)、白色のウエラ・イランガィヤ(Wella illangaliya)、ホンガラワラ(Hondarawara)、ガンガラ(Gangala)、ベルウィー(Beruwee)が思い出せます。「3カ月」の品種では、ヒーナティ(Heenati)、ダハナラ(Dahanala)、コッカリ(Kokkali)、カニ・ムルンガ(Kanni Murunga)、パチャハ・ペルマル(Pachha Perumal)、クルウィー(Kuruwee)、スヴァンデル(Suvandel)が思い出せますし、「6~8カ月」の品種、マウィー(Mawee)も栽培していました。
マウィーは何のためのものだったのでしょうか。
それは僧侶のための米でした。仏教の僧侶は、正午以降は食を口にしません。ですから、翌朝まで身体を維持するには、栄養価が高い食料を必要とします。マウィーはとても栄養価が高く、タンパク質も高い。それが、私たちが栽培した理由です。
それ以外にはどんな品種があったのでしょうか。
授乳中の母親向けにヘナティ(Heenati)を栽培していました。脂肪や糖分が多く、良い母乳がたくさんでたからです。私たちは両シーズンともそれを栽培していました。また、水田で働く男性たちのためにはカニ・ムルンガ(Kanni Murunga)を栽培しました。炭水化物が多く、エネルギーが出るからです。それは、伝統的な儀式用のミルクを作るのにも使われました。スヴァンデル(Suvandel)は、その並はずれた芳香から栽培していました。水田に水が十分にあるとき、こうした品種が栽培されていました。また、少ししか水がないときには別の品種が使われました。水が多いものは、「Goodel」あるいは、ゴダ(Goda)と呼び、少ないものは、マダゥイー(Madawee)あるいは、アルウィー(Alwee)と言います。 また、水田が泥がちなときには、そのための品種が育てられ、より泥が少ない高地で栽培するのにより適した別の品種もありました。また、とても良い土が必要な品種もあれば、とても痩せた土地でも順調な品種もありました。そして、ある品種は、他品種よりも害虫への抵抗性があり、伝統的な害虫防除法が失敗したときには、それ以外の品種よりも、むしろそれを植えたのです。
鳥専用の米を作り、鳥はそれがわかっている
伝統的な水田他の害虫の防除法はどのようなものだったのでしょうか。
害虫問題はいまよりもずっと少なかったのです。ひとつは、伝統的な米品種は茎が長く、風が吹くとなびいて昆虫が茎に乗ることが難しかったからなのです。今のハイブリッド品種は、茎が短くはるかに堅い。一般に害虫が乗りやすいのです。また、新品種の米と違って、伝統品種は、葉が大きく垂れ下がり、それが影を作って、雑草が生えるのも防いでいました。 イネはとりわけ、生育期の中で、短い決定的な期間、約2週間(出穂から約2週間の乳熟期)が害虫予防が必要です。この時期には、家族全員が、警戒体制をとり、どんな非常時にも対処する準備ができていました。これがイネを保護するのに不可欠でした。そして、この危機的な時期にいつもしていたことは、サボテン・ミルク(daluk)を水田に注ぎ込むことでした。これはある昆虫を遠ざける上でとても効果的だったのです。
イネが黄色くなれば、粒が形成され始めるまで、水田の水口に笹の葉を埋めます。この段階(乳熟期)は、まだ粒はかなり液体です。そこで、昆虫からそれを保護するため、仏教の僧侶が捨てた衣を入手し、それをココナッツ・オイルに漬けることで、芯を作ります。次に、それは、水田の様々な場所で点灯されて置かれるでしょう。衣には明黄色の野菜染料が含まれ、燃えるときに明るい光と同時に害虫を退ける非常に強いにおいを放ちます。 別の装置は、ここで栽培している蔦(creeper)の葉を砕いて粉にし、ジュースにし、水田の水口に注ぎました。このジュースは浮いて植物の周りに付着します。それは、決定的な2週間に米を食べる害虫、ゴデウェラ(Godewella)を殺す効果がありました。 また、私たちは、水田の四隅に乾いたマクラ(Makra)の葉を置き、それを積み重ねていました。また、水田の四隅にカドゥラ(Kadura)の木の枝も植えました。それは水田の虫を引き寄せるココナッツランプの支えとして使われました。 また、占星学の観点からも最も縁起の良い時に種子を慎重に蒔きました。私は、これも害虫の侵入を抑える助けになったと確信しています。
これとは別にやっていたことは、河床から砂を集め、水田と灌漑用水路の上でそれを撒くことでした。これも有効だったと確信しています。また、ジャック・フルーツから得られる非常に粘性のある物質で長いロープも作りました。子どもたちが、水田にロープを引きずることで、水田の虫がそれに付着するのです。あるいはまた、ドゥマラ(dummala)と呼ばれる樹脂を染み込ませた多くのぼろ切れを結び、これも水田を引きずります。特別な道具(pinovia)をもった子どもたちが水田に入り、水面にいる虫を取り除くのです。
セナナヤケ このすべてから、非常に高度な農業形態を可能にするには全家族の協力が必要なことがわかります。開発の影響で、家族単位が壊されると、世帯中断、それを実践する方法は全くありません。西洋で実践されている非常に破壊的な近代農業に頼るしか方法がありません。
そのとおりです。
西洋では、これを「生物的防除」と称していますが、あなたは、それをやっていたわけでしょうか。
ええ、そうです。一番効果的な水田害虫の防除法のひとつは、ココナッツの廃物をつぶし、水田の四隅に広げることです。これはDemalichchや七人姉妹と呼ばれる灰茶色の鳥を引き寄せます。鳥は、つぶされたココナッツを食べ、同時に、周囲にたまたまいるどんな水田害虫も食べるのです。とりわけ、2週間でイネを食べてしまう虫、ゴデウェラを食べてくれるのです。
伝統的な害虫防除の儀式はあったのでしょうか。
牛乳を沸かして、あふれさせる儀式がありました。「ミルクが壺から流れ出る」ことを文字通り意味する「kiriuturunewa」と呼ばれていました。水田の重要な害虫、トビイロウンカ(brown hopper)にとても効果があると考えられていました。また、害虫を退けるうえでとても効果があると考えられていた別の儀式は、水田の中央に飾り付けた棒を差すものでした。
齧歯動物はどうです。それは昔から問題でしたか。
ネズミの駆除には、ミーの木からとった根を埋めて、水田の四隅で燃やすのです。結果として、ネズミはめったに出現しませんでした。
鳥はどうです。
「kurulu paluwa」と呼ばれる各水田が終わる時期に、鳥たちのために米を作っていましたから、よく防げていました。
ですが、どうして鳥は、それ以外の水田で栽培された米ではなく、この米が自分たちのものであることがわかったのでしょうか。
私たちは何千年間もこれをやっています。鳥たちには、どれが彼らの水田であり、どれが私たち人間の水田かを学ぶだけの十分な時間がありました。もちろん、鳥たちはめったに私たちの水田地域に侵入しませんでしたが、侵入したとしても、イネの害虫や「ゴドウェラ」を食べ、子どもたちによって追い払われたりもしたのです。
セナナヤケ マジック的な害虫防除法はありません。私たちの農民は、すべての害虫を排除できる「奇跡の品種」や「奇跡の化学物質」を売ろうとする西洋の科学者を信じてしまうほど愚かではありません。産業社会が崩壊した後、西洋の科学者たちが去ったずっと後も、水田害虫は周囲にいることでしょう。私たちは様々なやり方で害虫たちと同居し、その略奪を抑えなければならないのです。ひとつのやり方は、わずかしか寄与しないかもしれないのです。 そのために必要な知識は、父親から子どもへと手渡されます。子どもたちが都会の学校に送られ、あなた方の西洋の科学的な迷信をすべて吹き込まれない時にのみ、これは可能です。また、家族の全構成員の完全な協力があるときにのみ、可能です。作業の時間毎に賃金を支払わなければならない従業員では、この協力は決して達成できません。
窒素固定樹木とオオコオモリの糞が肥料源
水田の地力はどのようにして維持したのでしょうか。 とても多くのやり方を用いていました。ひとつは水田にミーの木を植えることです。ミーはマメ科の樹木で、根粒バクテリアが窒素固定します。以前は20本/haを植えていました。その葉も窒素を多く含み、葉が蓄積したリターもそうです。また、非常に興味深いことに、ミーの木の実をオオコウモリが好み、果実が熟す時には木の上にものすごい数で集まっていたのです。結果として、窒素を多く含むコウモリの糞も重要な肥料源でした。また、最初の降雨(Akwassa)の前に播種することで、窒素を入手していました。ご承知のとおり、こうした降雨は多くの窒素を含んでいるのです。 また、私たちは、ソーラ(Thora)、アンダナ(Andana)、ヒリヤ(Hiriya)、ニヂクムバ(Nidikumba)、ピーワ(Pila)と呼ばれる収穫の間に、多くのマメ科の雑草が水田に生えることを奨励していました。それは、水田の脇や上に位置する狭い野生地、ピレワス(pillewas)で育ちます。マメ科の雑草の種子はピレワスから来ますから、私たちはこうした野生地を耕しませんでした。また、そこは、水田を耕すのに使う水牛の休息場でもありました。水牛の糞は、雨が降れば、下方の水田に洗い落とされ、これも肥料となりました。また、私たちが排便をしたり小便をするのもピレワスに生えた低木の影でした。これも地力づくりに寄与しました。 もちろん、現在は、近代的な開発によって、水田面積を増やすためにピレワスは耕されてしまっています。それが結果として地力低下と結びついているのです。
また、既に述べたように、伝統的なイネ品種は穂軸が長く、現在の短稈品種よりも水田に戻される藁が多いのです。同じく重要なことは、各村の背後にはかなりジャングルが広がり、そこから、「タンク」*に流れ込み、水田湛水に使う水が流れでていたことです。また、ジャングルがもたらしたのは水だけではなく、洪水のときに水田に流れるジャングル土でもありました。
*タンクという言葉は、ポルトガルのTanqueに由来し、伝統農業で重要な役割を果たす人工池と貯水池のこととしてスリランカで用いられている。
こうしたすべての方法を用いることで、私たちは土地の地力を保有していました。それらは、機能しなければなりません。さもなければ、土地を耕作できないでしょう。
近代ハイブリッド品種は旱魃に弱い。収量が増えるのも水分が多いだけ
化学肥料は使おうとしていますか。
ええ、この数年は化学肥料が必要なハイブリッド米を栽培しているため、そうしなければなりません。
コメにはどんな影響がありますか。
私の水田は0.4haです。豊作の年には100ブッシェルが生産されます。家族が一年に75ブッシェルを消費しますから、豊作の年には余分があります。問題は、生き続けるには大量の余剰が必要なことです。なぜならば、かつてよりも自給的でなくなっているからです。おそらく、私の父の時代は私よりもコメの生産量は少なかったのですが、少ししか必要としませんでした。また、父はとても数多くの品種を植えていましたから、毎年ニーズを十分に満たす生産がされることを確信していました。 私たちが直面する問題がある年でも、いくつかの品種はよく育っていたのです。こうした各品種は、現在用いられているハイブリッド品種ほど、深刻な状態に脆弱ではありませんでした。旱魃があればハイブリッド米は枯れてしまいます。今、年々旱魃がひどくなっていますが、誰もその理由がわかっています。ジャングルを伐採してしまったからです。また、別の問題は、ハイブリッド米が保存できないことです。格納すれば、2、3カ月後にはかび臭くなるのです。
伝統的な品種はどれだけ保存できたのでしょうか。
少なくとも3年は持ちました。
グナセカラ 私は、父がまだ貯蔵庫に3年前の米があるとき、母が新米を料理すると叱っていたのを覚えています。格納方法も重要だったと思います。米はネズミが入れないスタンドに置かれた大きい土製の壺に保存されていました。陶器は多孔性ですから、米は空気にさらされクールでした。壺はライム葉で裏打ちされ、カラ(kara)の葉も害虫を退けるのに役立ちました。
近代的なハイブリッド米の格納性が悪いのは、水分含有量が多いためなのです。化学肥料を使えば生産量は増えますが、これは主に水分量のためなのです。乾物では肥料を使わない場合とほとんど同じ目方であることがわかります。ヨーロッパでのサセックス大学とUNEPによる2つ研究から、第三世界での格納問題が主にこの水分含有量の増加によるものとされています。
どのような場合であれ、ハイブリッドの小麦種は味がなく、私たちが作る小麦粉は小麦粉の味がします。こうしたすべての理由から、私は、ハイブリッド米をやめ、再び伝統品種を栽培するつもりです。問題は種子を見つけることですが、私たちは、お互いが伝統的な農業システムに戻るのを助けられるように、すべての地元の農民たちを一緒にやっています。
魚がいなくなったからマラリアが増えた
古いシステムには別の利点もあります。もはや生産できなくなった色々な食べ物をかつては生産していたということです。 例えば、どんなものが。 まず、バウル(Baulu)、ウェーラ(Weera)、ジャックフルーツ、ヒンブツ(Himbutu)、ウッドアップル(Wood Apple)、ヒマラヤナシ(Wild Pear)やアボガド等、多くの食べ物を手に入れるために以前はよくジャングルに入っていたのです。いまはジャングルが切り倒されたので、もはやこうした食物を手に入れられません。ジャングルを再生しなければならないのです。
また、以前は、川、タンク、そして、湛水田から数多くの魚を獲っていました。ルラ(Lula)、カワチャ(Kawatya)、ハダヤ(Hadaya)、アラ(Ara)等の魚は渇いた池でも生息できました。少なくともこの地域では、それらはほとんど消え失せ、アフリカからここに持ち込まれ、政府が押し付けたティラピア(Tillapia)に食べられてしまっています。政府は、ティラピアは植物質のものを食べるだけだと主張していますが、これは本当ではありません。それ以外のものも、とりわけ、水田に住むものは農薬の毒で殺されました。どんな魚ももういないため、マラリアを伝染する蚊の幼虫は、現在、乾期を生き残れます。結果として、マラリアが以前よりもはるかに深刻な問題となったのです。 また、タンク内で繁殖していたルラは、造血機能があるため、かなり価値がありました。それが、いつも妊娠中の母親に食べさせていた理由です。 タンクから得られていたそれ以外の魚には、ロラレ(Lorale)、ペティヤ(Petiya)、ヒリカナヤ(Hirikanaya)、ワラヤ(Walaya)、アンダ(Anda)、アンクッタ(Ankutta)もいました。とりわけ、コラレ(Korale)はとても甘い魚でした。今、私たちはただティラピアがいるだけです。悪くはありませんが、すべての伝統的な品種を代替えはしません。伝統的な魚には、すべて特別な用途があります。ティラピアは、水田には入らず、タンク内に棲息しています。この変化で私たちの食事や人生も明らかに貧しくなったのです。
焼畑農業が否定された
それ以外にどんな食べ物を得ていたのでしょうか。
多くの植物性食品はタンク由来のものでした。例えば、蓮米、一種の蓮の種子です。また、蓮の緑の茎も食べました。さらに、タンク内では蓮の山芋(lotus yams)も育てていましたし、カケティ(Kaketi)の根からの小麦粉も作り、マンゴー、バナナ、ココナッツ、ジャック・フルーツ、コショウ、ヒヨコマメ(bean grams)やモヤシ等の野菜も得ていました。まだある程度は栽培しており、それらは昔のものではありません。 西洋では否定的ですが、私たちは、チェンナや焼畑を忘れてはいけません。それは水田稲作に適さない村の背後の丘陵地でなされました。数年耕やさした後、それを放棄し、ジャングルが再生する時間で10~14年後に戻るだけなのです。各家族は、約0.2haほどを耕作しますが、それは、私有地ではなく、村の共用地なのです。私たちがそこで栽培する主作物は、あわ、クルケン(Kuruken)他の乾燥穀類でした。 近年は、人口増加によってサイクルがジャングルが完全に回復できない4~5年と短くなっています。現在、チェンナ栽培は政府から薦められず、かつてこの目的のために使われていたほとんどの土地は、それが適さない永久的な栽培になっているのです。
マラリアの伝統的な特効薬は政府が禁止した
実際にすべての伝統食には薬効の用途もあったように思えますが、効果的なマラリアの伝統療法もあったのでしょうか。
とても効果的なものがありました。通常、知られているようにバンジャ(Banja)やガンジャ・マリファナ(Ganja-marijuana)を使います。これは最も重要な薬品のひとつで、以前は「全世界に勝てる葉」と呼ばれ、すばらしい薬効がありました。私たちは、それを粉にし、紅茶のように沸騰させ、ジャゲリー(jaggery=Kittul palmからの砂糖)を加えていました。それはマラリアに唯一効果的でしたが、害虫にも有効でした。また、血液から吸収される時間を短縮することから、私たちはそれ以外の食べ物とあわせてそれを摂取していました。はちみつにも同じ効果があります。
グナセカラ 16世紀にスリランカで難破し、王の囚人として17年間を過ごしたイギリス人、ロバート・ノックス(Robert Knox)は、バンジャをセイロンのマラリア療法と呼びました。その植物は「3つの世界の支配者」と呼ばれました。
薬用途にまだバンジャを使っていますか。
いいえ、今は政府によって禁止されています。
風土に合わない日本の田植え技術を政府は強制している
ちょうど発芽したときに籾を移植することで収量が増やせると言われていますが、これをしようとしていますか。 政府は、それを強制しようとします。彼らはこの技術を日本人から学んだのです。日本の米の栽培地域の多くは、3週間ほど続く霜の時期があります。水田に残されると、イネが痛みます。そこで、日本人は、温室内で種子を撒くことで、霜から保護し、水田に田植えをするわけです。 ですが、スリランカでは、田植え後に苗が病気であるとわかると、回復には最大2週間かかります。これに対応する唯一の方法は、化学肥料を用い、弱ったイネの害虫には農薬を散布することになります。田植えには多くの時間がかかりますし、チェンナ耕作やタンクでの釣り等の他の活動を妨げます。 政府は、2毛作ではなく3毛作をすべきだと熱心です。政府の主張は、近代農法によって可能となりますが、トビイロウンカが永久的に棲息できるニッチをもたらしてしまうことは別としても、多くの時間がかかり、社会生活を含めて、私たちのそれ以外の活動に干渉するのです。
トラクターは地力を低下させ、失業を増やす
トラクターを使おうとしましたか。
私は持っていませんが、多くの農民は使っています。それは水牛ほど良くはありません。1組の水牛は約900㎏の目方があり、その足は、水田の土を押すのに適した形をしています。結果として、水田には水の減水深を減らす粘土やクラストが形成されるのです。一方で、粘土の上にある土をかきまぜ緩めます。水牛は、一年に約680㎏の糞をし、尿も大量にします。いずれもかなり地力に貢献します。 一方、トラクターは水田には重過ぎます。トラクターが通ったところは、どこも粘土層が壊され、水が地下浸透します。いま水はそれほど手に入りやすくありませんが、トラクターを使うと、大量の多くの水が必要となるのです。また、土をかきまぜて軽い有機物が表面に浮かんで、洪水時に流れてしまいます。それで、トラクター使用は地力低下につながるのです。トラクターは排便も小便もせず、まったく土づくりに貢献しないことも言うまでもありません。私たちの食事で非常に重要なミルクやギー(不純物を除いたバター)、カードも生み出しません。さらに言えば、それは繁殖しません。一台が死ねば、別のトラクターを買わなければならないのです。
もちろん、トラクターは労力を節減します。そして、いつも言われることですが、私の職業は農業であって、つまり、私がいつも圃場にいなければならないことを意味します。それが私の人生というわけです。もちろん、私は、一日中眠りたくもありませんし、隣人とゴシッピングに時を費やしたくもありません。 とはいえ、どのような場合であれ、これだけ高い失業率のある国で労力節減というわけです。昔は、労力節減は、あまり意味がありませんでした。家族やコミュニティは完全で、耕起、播種、収穫、タンクの維持のための人々が十分いつもいたのです。
タンク復興には伝統文化の復興も欠かせない
セナナヤケ もし、こうした協力がなければ、タンクは維持されなかったでしょうし、アヌラーダプラ(Anuradhapura)やポロンナルワ(Polonaruwa)文明も決して存在しえなかったでしょう。ことによれば現人口と匹敵する1500万人もいた人口も支えられなかったでしょう。
政府は今、古い潅漑システムを復旧しようとしているのではないですか。
セナナヤケ 彼らは世界銀行の援助で多くのタンクを修復しました。ですが、大きいタンクだけで、それだけでは不十分です。小さな村タンクも使われ、これらが主に沈泥で塞がれる場合にだけ、大きいタンクは役立ちます。それらを維持するのが潅漑の部局の仕事ですが、官僚制度ではそれを維持できません。ひとたび村の社会構造が崩壊すれば、沈泥でふさがれます。伝統農業を回復したいと思うならば、まず、社会生活と文化を回復しなければなりません。
まったくそれに賛同します。復旧しなければならないのはタンクではなく、タンク栽培の全システムなのです。官僚にはこれができません。 5つの異なるタイプのタンクがありました。まず、村の上にはジャングル内に掘られた森林タンクがありました。 それは潅漑のためのものではなく、ジャングル内に住む野生動物に飲料水を提供するためのものでした。これを学ぶために何千年もあったので、動物たちはそれが彼らのものであることをわかっており、水を求めて村に来て、農業活動を妨げることはありませんでした。 2番目の種類のタンクは山のタンクでした。それからは流れ出る運河はなく、目的は、チェンナ耕作用の水を供給することでした。 3番目の種類のタンクは、「Pota Wetiye」として知られる砂防タンクでした。ストレージタンクの前に沈泥を蓄積するのです。そして、簡単に沈泥しないよう設計されていました。 4番目はストレージタンクで、通常それは2つあり、双子タンクとして知られていました。それらは順番に使われ、片方が維持される間、1つが使われました。これは数多くの村のタンクにつながっていました。
セナナヤケ こうしたタンクは伝統的な農村生活で不可欠の役割を果たしていました。人は寺も水田もない乾燥地域のタンクがない村は想像できません。事実、村の3つの基本構成要素は、寺(仏舎利塔)、水田(kumbura)そして、タンク(wewa)でした。もちろん、テネコン氏が言ったように、それ以外も重要な要素がありました。上のジャングル、菜園とそして、チェンな耕作がなされた低木林です。
伝統的な村はどのようなものだったのでしょう。
家は非常に接近して建てられていました。こうすることで、貴重な土地を最小に抑えていました。このアレンジメントが村で不可欠の協力を支えました。例えば、1人の女性が、数多くの隣人の子どもたちの世話をできました。作物の収穫やタンク維持には多くの人数が必要なときに、これは重要でした。
タンクの維持はどのように組織化されていたのでしょうか。
それは王が所有していたラジャカリヤ(Rajakariya)サービスの一部でした。誰もが1年に40日はこのサービスをしなければなりませんでした。ですが、これは、王の個人的な気まぐれのためのものではなく、コミュニティ全体のためにしなければならない仕事でした。
グネエセカラ まさに。ある一人の王は、ラジャカリヤの仕事の一部として、カンディの王宮の正面の人造湖の泥さらいをさせようとしましたが、人々は、「これはコミュニティの仕事ではない」と言い、それを拒否したのです。王は個人的な責任で、別にそれを準備しなければなりませんでした。
セナナヤケ もちろん、イギリス人たちはラジャカリヤの全体としての原則を誤解し、虐待的と考え、カンディの封建的な過去の遺物として撤廃しました。これはイギリス人が今までにやった中でも最も破壊的なひとつでした。この国で協力のまさに原則を破壊したのです。幸いなことに、完全にそれは破壊されたわけではなく、初歩的なフォームで残りました。村人たちは公益(common good)のために、まだ1年に14日は働いていました。それは、1970年に灌漑部局によって、最終的に止めさせられた習慣なのです。官僚たちは村人たちによる協力的な仕事を認めないでしょう。それはサービス需要を減らします。もし、ラジャカリヤのシステムが機能していれば、潅漑当局の官僚たちはまったく必要ないでしょう。もちろん、いまは、タンクを維持することが彼らの責務ですが、それについて彼らは何もしません。 誰しものビジネスは、誰かのビジネスになっていなかったわけです*
* 1849年に英国議会により設立された委員会の英国人からなされたコメント
私に語ったすべてから、西洋の技術的農業の全パッケージを完全に拒絶しているという解釈してよいでしょうか。
ええ、そのとおりです。
伝統的な古い農民たちのやり方を好むわけですね。
ええ、好みます。ですが、オフィシャルの目から見れば、私は「自給的農民」ですから貧者です。西洋教育も受けていませんから無教育です。とりわけ、私のすべての知識、伝統や文化はカウントされません。正規経済にも加わっていませんから、失業しているとさえ考えられています。私はほとんど市場に貢献していませんし、乞食とさえ言われました。
スリランカは過去に戻るべきだ
セナナヤケ このすべてがすぐに変わるでしょう。そして、あなたから私たちの伝統を学ぶために集まる若者たちのモデルになりましょう。今の傾向は持続できないからです。問題は手に負えないほどになっています。プランテーションに道を通すために、ジャングルはいたる所で切り倒されています。前例のない速さで土壌浸食が増え、タンクは泥でふさがれてしまいました。反浸食タンクや双子タンク、村のタンクを維持する者はだれもおらず、完全に沈泥でタンクがふさがれている村もあります。 さしあたって、誰もが、町や都市に移住しようとしています。現在、コロンボには10年前に存在しなかった広大なスラムがあります。今の傾向が続けば、コロンボは、カルカッタのようになってしまうことでしょう。 人々は、自分たちの食料を正式な経済に依存するようになっていますし、その価格は高騰しています。政府は人々を養おうとはせず、輸出用の換金作物生産のために、湿地ゾーンで私たちの土地の半分が使われないのです。あるいは、マハウェリ計画で広大なダム群を作ろうとしています。そうではなく、過去の農業システムを復活すべきなのです。もちろん、現在優先されている開発主義を打ち捨てなければ、これはなしとげられません。 この国を、西洋型の産業国家の熱帯版に変えようとする試みは自滅的なのです。それは、凄まじい栄養不良や飢饉をもたらすだけです。 このスリランカにあるべきは、過去の「乳と蜜の流れる大地」であるべきなのです。
【引用文献】
最近のコメント